2018年4月28日
(内容)
- 自分がしたことを他人も自分にするものだということを踏まえ、善いこと(人を赦し、与える)をするように勧めがなされ、悪しきこと(人を裁き、罪人と決めつける)は控えるようにと警告がなされます。
(黙想)
- 人を裁き、人を罪人と決めつけるなとありますが、私たちはこれをしばしば行いがちです。何かあると他者に対して、ふとこのような思いが湧いてきます。これは罪だと教えられます。誰もがしていることだから、ささいなことだからと言い訳はできません。
- 私たちの心には、自分を他者より上に置きたいとの願望があり、自分を賢いものだと考えたい思いがあり、物事がうまく行かないときは人のせいにする思いがあります。そんな思いが、イエス様の教えによって咎められます。
- 赦せない思いにとらわれ、赦しなさいと言われても、こんなにひどいことをされたのだから赦せるはずがない、と神さまに訴えることさえする私たちです。
- 与えることについては、損をしたくないと自分の利益を計る心のゆえに抵抗を感じます。惜しむ心が人にはあります。
- 人の欠点を指摘する前に自分の欠点を直せという教えは、人を教えたがり、自分を他者より優位に置きたい人間の高慢が示されています。
- イエス様の教えは正しいと思いますが、どれも私たちは抵抗を感じる面があります。私たちの心に肉の思いがあるからです。私たちの内の古い人のなせるわざです。
(聖書に聞く)
☆神の求める私たちの生き方
- (罪)37節。人を裁くことは罪です。人を罪人と決めつけることも罪です。
- (勧め)38節。人を赦すこと、人に与えること。
- (勧め)41~43節。人の欠点を指摘する前に自分を謙遜に顧み、自分の欠点を直すことが大切。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、「人を裁くな」と教えられます。牧師として働いていたとき、長老や信徒を心の中で裁いていたことがあります。そのときは、人を表面で見てはいけない、背後には色々な事情があると考え、裁くよりも思いやりを持つべきこと、裁く代わりにとりなしの祈りをすべきことを学びました。人を罪人と決めつけることも同様です。
- 今は人を裁くことや罪人と決めつけることからは自由になったと思います。現状では、個人的な関係において赦さなければならない人はいませんし、赦すことにおいての困難はありません。
- 「与えなさい」。折に触れて献金や寄付はしてきました。これで十分とは思いませんが、特に今、あなたから「与えなさい」と命じられているようには思えません。
- 「まず、自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすればはっきり見えるようになって」とあります。これは少し引っかかります。私は牧師に召され、福音を宣べ伝えてきました。今、はっきりと感じていることは、私たちの間に福音理解に偏りがあるのではないかということです。福音を罪の赦しに限定して理解することが適切なのかということです。それは礼拝の司式をする長老の祈りを聞いて感じていることです。これは私が説教奉仕をしたどの教会にも見られる傾向でした。だいぶ以前から今日に至るまで感じてきたことです。
- 司式者の祈りにおいて罪の赦しに対する感謝は祈られますが、罪と闘い、罪に打ち勝つ可能性があるとは信じているようには思えないのです。まだ罪の支配下にあるかのように感じる祈りを聞きます。私たちはイエス・キリストを信じて洗礼を受け信仰者になります。そのとき、私たちは新しく生まれ、さらに聖霊の助けを得て罪と戦い勝利できること、心を縛る様々な思い、たとえば赦せない思い、思い煩い、劣等感、不安や恐れなどからの解放、自由もまた福音です。ルカ福音書では、イエス様は人々に開放、回復、自由を与えるために来られたと書かれています。しかしこういう側面は礼拝の説教で語られることが少ないように感じます。
- 福音理解が正されることを願います。今日の聖書は、自分の目にある丸太を取り除きなさいとあります。これはどういうことかを思います。福音理解に偏りがあることを外に向かって語るのではなく、つまり、自分は気づいているんだとの思い、そこから生まれる批判的な思いを捨てること、私が福音をどう理解しているのかを提示して、これを見た人が、なるほど、自分の福音理解には偏りがあったと気づいてもらえるようにすることが丸太を取り除くことかと思いました。
- 聖書が告げる福音は何なのか、プロテスタント教会が受け継いできた信仰問答や、信仰告白を見直しながら、まとめることを課題とします。
①自分の福音理解をプロテスタント教会が受け継いできたものに照らし合わせる。
②その上で、今年度も説教奉仕の機会が与えられているので、何が福音かに焦点を絞って説教をしたいと思います。
(与えられた導き)
- 6月、7月の説教テーマ、説教箇所を決める。