2018年5月11日
(内容)
- イエス様はファリサイ派の人の家に食事に招かれました。イエス様がそこにおられることを知った一人の女性が、その家に行き、後ろからイエス様の足元に近づき、イエス様の足に香油を塗りました。
- イエス様を招いたファリサイ派の人は、イエス様が罪深い女性に体を触れさせていることを非難します。するとイエス様は、この女性は多くの罪を赦され、ご自分に対して愛を示したのだと答えられました。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)39節。イエス様は人を「罪深い女だ」と罪に定めることはなさらないお方です。ファリサイ派の人は、この女性を「罪人」と決めつけています。6章37節でイエス様は、「人を裁くな・・・、人を罪人だと決めるな」と教えておられます。
- (御子)47節。ご自分を愛する人の愛を知ってくださるお方。イエス様は、ファリサイ派の人が「罪人」と決めつけた女性の行為を愛の行為と認め、この女性の愛を受けとめておられます。
- (御子)48節。イエス様は罪の赦しを宣言される方。宣言する権威をもつお方。
☆神が求める私たちの生き方
(教え)47節。赦されることの少ない人は愛すること少なく、多くの罪を赦される人は。大きい愛を示します。
(黙想)
- 罪深い女とされた女性は、イエス様に会いたいと願い、イエス様のもとに行き、イエス様の足を香油によってきれいにしています。彼女がどうしてそのような行動をとったのか、理由は明記されていません。しかし彼女がイエス様に会い、イエス様のために何かしたいとの思いを持っていたことは行動から分かります。
- それに対して、イエス様を客人として招いたファリサイ派の人は、イエス様に足を洗う水を差し出しませんでしたし、頭にオリーブ油を塗りませんでした。この女性は、ファリサイ派の人のしなかったことをしています。このような客を迎える習慣については、私たちにはなじみがないので分かりにくい面があります。
- でも、この女性がイエス様に対して、自分のできることをしてイエス様に対する愛を示したことは分かります。ファリサイ派の人がイエス様を招いたのは、結局は自分のためだったと思います。イエス様を丁重にもてなすという点で、礼に欠けていると思われます。あるいはそこまでする客人とイエス様を見ていなかったのです。
- イエス様を愛する、これがテーマです。僕は神の国に迎えられるとき、イエス様に会うことを喜びとしたいと願っています。神の国とは、漠然とした理想郷と考えるのではなく、イエス様がおいでになるところです。僕にとって神の国はイエス様のおいでになるところというイメージです。
- 僕はイエス様を愛していると思います。愛は対象によって、愛し方が異なってきます。神を愛する、夫を愛する、妻を愛する、子を愛する、隣人を愛する、イエス様を愛する。愛し方はそれぞれ異なります。イエス様も父なる神さまを愛され、地上の歩みを全うされました。主イエスは十字架の死に至るまで、神さまに従順に歩まれました。そこにイエス様の父なる神への愛が現れています。
- イエス様は、三度ペトロに「わたしを愛するか」と問い、「愛します」と答えたペトロに「私の羊を飼いなさい」とお命じになりました。イエス様への愛は、イエス様との交わりに生きようとする志から生まれます。イエス様の教え、言葉守り、イエス様の言葉にとどまる、これがイエス様を愛することとヨハネは、その福音書で語っています。
- またイエス様への愛には感謝が伴います。罪が赦された感謝です。そこからイエス様の愛に応答する志しが生まれます。応答の仕方は、人それぞれの形となって現れます。多く赦されれば多く愛することになります。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、私はかつて空しさという闇の中にいました。イエス様のことを知り、私は驚きました。自分をむなしくして十字架の死に至る生き方に驚きました。自分のために何かを得ようとする生き方ではなく、自分を献げる生き方でした。それを知ったとき、ここに空しさを克服する道があると信じました。そしてイエス様を信じる信仰へ私は進みましたし、信仰へと導かれました。あなたの導きを感謝します。そして自分のために生きるのではなく、イエス様に従う道を歩みたいと願いに生きてきました。主イエスに対して特別な感情はありませんが、私は主イエスを愛してきたと思います。
- 天の父、あなたは私の罪を明確に示してくださり、同時に赦しを与えてくださいました。そのことは、私を肉の思いから自由にさせ、イエス様に従う思いを深めました。
- 牧師を引退し老いを生きる今、やはり主イエスを愛する道を進みたく思います。天の父、主イエスを愛そうとする私は、何をすればよいのでしょうか。イエス様、あなたは私に何をお望みでしょうか。でもその前に、イエス様は、イエス様を愛する者の愛をご存じのお方と教えられました。私にとってイエス様を愛するとは、一つには福音を宣べ伝えることにあります。自分の説教の向上のためには、何でもしてきました。そしていくつかの学びのチャンスも与えられました。説教の向上をあなたが導いてくださったことを感謝します。今日は、私のそのような努力がイエス様への愛によるものであったことを自覚できましたことを感謝します。イエス様は私の愛を知っておられるのですね。うれしく思います。
- イエス様、あなたは私を福音を宣べ伝えるように召してくださいました。それはただ語るだけでなく、福音に生きて、証しをする者として福音を語るようにあなたは私を召されました。今牧師を引退し、毎週説教する務めの任を解かれました。しかし今、無牧の教会のために月二回の説教の務めを与えられています。この務めを果たすことは今、私の大きな務めです。今イエス様を愛することと、福音を伝えることは一つですので、次回の説教(5/23)のために祈ります。最善の努力をします。
☆与えられた導き
・5月23日の説教のために祈り、最善の努力をする