2018年5月28日
(内容)
- 会堂長ヤイロの娘が死にそうでした。彼はイエス様のもとに来て、自分の家に来てくれるように頼みます。イエス様はヤイロの家に向かいます。途中で一人の女性の癒やしの出来事が起きます。そのところへ、会堂長の家から使いの者が来て、娘の死を告げます。イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と告げます。そしてヤイロの家に行き、娘を生き返らせます。
(黙想)
- イエス様がヤイロの家に着いたとき、そこには人が集まり、ヤイロの娘が死んだこと泣き悲しんでいました。そこでイエス様は「泣くな、死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。
- そこで思います。イエス様が見る現実と我々人間が見る現実が違うことがある、と。この場面で人々が見る現実は、ヤイロの娘が死んでいるという現実です。それゆえ、人々は泣き悲しんでいます。しかしイエス様が見ている現実は、ヤイロの娘が眠っているという現実です。死んだのではなく、眠っているという現実です。だからイエス様は「泣くな」と人々に命じます。娘は眠っているだけなのだから、泣く必要はありません。眠っているのだから、起こせば目覚めます。そこでイエス様は娘の手を取り、「少女よ、起きなさい」と呼びかけました。するとその呼びかけに応じて娘は起き上がりました。
- 私たちが見る現実と、イエス様が見る現実が同じとは限りません。私たちが見る現実が本当の現実とは限りません。イエス様が「眠っている」と語ったとき、人々はイエス様をあざ笑いました。娘が死んでいるのに、何を言うのかと人々は思ったのです。イエス様が正気ではない、とあざ笑いました。
- イエス様は、この出来事を誰にも話さないようにとお命じなりました。それはなぜなのでしょうか。単なるいやしの奇跡とだけ見られることを願わなかったのではないかと考えます。
- この出来事から何を教えられるのか。私は、イエス様の見る現実と私たちが見る現実は、異なることがあるということを教えられました。娘は死んだのではなく、眠っている、これがイエス様の見る現実です。しかし人間は、娘は死んだという現実を見ます。その後、どちらが本当の現実であったかが明らかになります。
- 私たちは祈る時、自分にとって願わしい現実の実現を求めて祈ります。その願いがかなわないときがあります。その時は、神さまは別の現実を用意しておられるのです。神さまの目に、私たちにとってはるかにまさる現実を用意しておられるのです。この現実を見ることが大切と教えられます。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か。
- (御子)42節。御子は憐れみ深い方であり、死にそうな娘のいやしを願うヤイロの願いを受け入れ、彼の家に行かれます。
- 自分の家に来てくださいと願うヤイロの願いに応え、イエス様は彼の家に行きます。百人隊長の部下が病気で死にそうになったとき、百人隊長は、ひと言おっしゃってくださいとイエス様に願いました。イエス様に対する求め方は人それぞれであり、人は自分のやり方でイエス様に求めればよいことも分かります。
- (御子)52節。イエス様の見ている現実と人間が見ている現実は違う。
- 人々は娘が死んだという現実を見ています。しかしイエス様にとって、娘は眠っているのです。「娘は眠っている」とイエス様が語ったとき、人々はイエス様をあざ笑いました。娘は眠っているから、イエス様は「少女よ、起きなさい」と呼びかけられました。イエス様の見る現実が真の現実である、そのように考えることも大切だと教えられます。
☆神が求める私たちの生き方
- (勧め)42節。イエス様は憐れみ深い方です。何でも祈り求めることができます。求め方は自由です。自分らしくイエス様に求めることができます。
- (警告)自分が見る現実が絶対的な現実ではなく、神が見る現実もあります。どちらの現実を見るべきでしょうか。
- 昔エリシャのいた町がアラム軍に囲まれたことがありました。列王記下6章。エリシャの従者はこれを見て恐れました。その時エリシャは、彼の目が開かれるようにと祈りました。すると従者は、火の馬と戦車が、エリシャを囲んで山に満ちているのを見たとあります。これも現実です。神の現実です。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日は私たちの見る現実とイエス様の見る現実が同じとは限らないことを知りました。イエス様が見る現実を人々はあざ笑いました。しかしイエス様は、ご自分の見ている現実を、私たちの現実とされました。死んでいるのではなく眠っている少女の目を覚ましたのです。
- 神が見ている現実を見るべきことを教えられます。私は今、日本の政治を見て、自分の語る言葉に対する誠実さが見られない首相の退陣をあなたに祈ってきました。聖書には高官のために祈りなさいとあり、政治家のために祈ることは信仰者にとって大切な働きです。この首相が、語る言葉に誠実な人となるようにと祈りもしましたが、この祈りは、首相の人格を変えてくださいとの祈りになるので、越権行為的な祈りかも知れません。私が見たい現実、それは首相の退陣です。それを見たく思い、その退陣を祈ってきました。でも神さまが見ている現実は別の現実かも知れないと思わされました。
- 今国民は慣れっこになっています。森友、加計問題で新事実が浮かんできては、権力者は誠意のない答弁をします。財務省のトップの失言にも慣らされてしまいます。こうして政治に対する期待がしぼみ、無力感が大きくなっていきます。これは政権側にとっては思うつぼかもしれません。やがて選挙になれば、自民党を支持する固定層の票により、現政権は大きな痛手を受けないかもしれません。
- 神さまが見ている現実は何かと考えます。私たちが政権の悪しき振る舞いに慣らされて不感症になり、憤りを忘れ、無力感に陥り、政治に無関心にならず、批判精神を持ち続けるという現実を見るべきと思いました。選挙の時に、決定的な批判票を国民が投票することができるように祈りたいと思いました。
☆与えられた導き
- 今の政治状況に対して国民が無力感を抱き、政治に無関心にならず、選挙の時には、批判票を投ずる神の現実としてこれを見て、祈る。