2018年8月7日
(内容)
- ともしびに関するイエスのたとえと教え
(黙想)
33節
- ともし火をともす人は、部屋の中を照らすためにともし火を燭台の上におきます。ともし火を穴蔵の中や升の下に置くことはしません。これはたとえとしてよく分かります。
34節
- あなたがたの体のともし火は目である。不思議な言葉です。目というともし火は、あなたがたの体を照らすというのです。そこで目が澄んでいるか、どうかが問題になります。目が澄んでいると全身は明るいのですが、目が濁っていると体は暗いというのです。体は肉体を意味するのではなく、私たち自身を指していると思います。私たちの状態です。目が澄んでいれば、私たちは明るく、輝いています。目が濁っていれば、私たちは暗く、輝きはないというのです。
35節
- 光が消えていないか調べなさい、と命じられます。全身が明るいか、暗いか調べなさいと命じられます。何をもって明るいと言い、暗いと言うのでしょうか。その判断基準は、何なのでしょうか。
- 現在の自分の状態をどう考えるか、です。悩みで苦しんでいれば、暗い状態にあると言えます。
- 明るい、暗いは、目が澄んでいることと関係しています。でも目が澄んでいるかどうかは、自分では分かりません。それは全身が明るいか暗いかで分かります。ちょうど、木の実を見れば、良い木か悪い木か分かるというのと似ています。自分自身をチェックするように命じられています。
36節
- 調べた結果、「全身が明るく、少しも暗いところがないなら」、全身は輝いています。目は澄んでいます。
- 私たちの全身が明るく輝くというのは、どういうことでしょうか。神が私たちをともし火とし、輝かせようとしているとするなら、それは何のためなのでしょうか。どういうことなのでしょうか。私たちが神の栄光を輝かせるという意味なのでしょうか。それとも、世を照らす光となるとの意味でしょうか。一人の信仰者として、御心にかなう歩み、健全な歩みをしているということなのでしょうか。
(全体)
- 文脈的に言うと、この段落のすぐ後には、ファリサイ派の人々をイエス様さまが批判する記事が書かれています。この段落の前には、しるしを求める信仰が咎められています。さらにその前の段落では、神の言葉を聞いて守る人が幸いな人であるとイエス様は教えています。
- とすると、神の言葉を聞いて守る人、その人は明るく、輝いているということなのでしょうか。その結果として、私たちが神の栄光を現し映し出すこともあるし、世の光となることもあります。私たちをともし火として用いる方は、神さまです。
- すると目が澄んでいるとは、イエス様の語ることを素直に受け入れることを意味するのかもしれません。ファリサイ派、律法学者たちのように、自分の考えによって、イエス様の語ることを受け入れず、イエス様を受け入れないのは、自分の考えに固執していることになり、これは目が濁っていることになります。
- 聖書の言葉に照らして、自分の考えや行動を吟味します。聖書の言葉が基準となります。基準に沿っていれば私たちの目は澄んでいます。聖書はそう言うが自分はこう考えるとなれば、目が濁っていることになります。
- 光が消えていないか調べるとは、聖書の言葉を読み、自分が、それをどう受けとめているかを吟味することになります。素直に聖書が語ることを受け入れるのか、受け入れないのか。神の言葉を守っているのか否か、自己吟味をするようにイエス様はお命じになっているように思われます。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)父なる神は、私たちをともし火として用い、輝かせようとされる方です。
- (御子)35節。私たちの中にある光が消えていないかどうか調べなさいと命じる方。
- (御子)御子は、私たちが幸いになるように願う方。
☆神が求める私たちの生き方
- (命令)35節。私たちの中にある光が消えていないかどうか調べなさいと私たちは命じられています。
- 私たちが、神の言葉を聞いて守る人となっているかどうか、自分が吟味することが求められています。目が澄んでいるとは、神の言葉を聞いて守ることを意味していると考えることができます。
- 神の言葉を拒んだり、守ることをおろそかにするなら、それは目が濁っていることを意味します。神の言葉に対する私たちの態度はどうなっているのでしょうか。そもそも聖書を読むことを大切にしているのでしょうか。聖書を読むことが幸いにつながると信じてるのでしょうか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、自分の中にある光が消えていないか調べなさいと命じられました。あなたの導きを感謝します。自分の状態を振り返ります。特に霊的な状態を思いめぐらします。基本的には、良い状態にあると思います。聖書を読み、あなたのみ心に自分の心を寄り添わせるようにしています。肉の思いも遠く離れていきました。
- 自分の状態を思いめぐらす中で、祈りについて思うことがあります。わたしはあなたに導かれて、聖書の読み方を教えられました。ディボーションという方法で聖書を読めば良いことを教えられました。しかし祈りについては、まだわからないことがあります。そもその祈りとは何か、祈りの生活はどうあるべきなのか、自分なりの答えはありません。祈りについては、いつも不十分さを感じてきました。
- 牧師の働きを引退し、ある意味、自由な身となりましたが、生活は結構忙しいです。朝食の用意、後片付けをし、孫の見守りに出かけ、買い物に出かけ、聖書を読み、と細切れに時間を使うことが多いです。祈りがついおろそかになってしまいます。生活のパターンを変える機会は多くはありません。そこで今日から、祈りを最優先に実行することにします。聖書を読むことよりも先に祈ることとします。
☆与えられた導き
- 祈りを最優先にする生活をする。