2018年8月21日
(内容)
- イエス様の仲間であると告白することの必要、聖霊を冒とくしてはならないこと、聖霊の働きに信頼することをイエス様は教えています。
(黙想)
- この段落は、イエス様を宣べ伝える者たちが捕らえられたときのことを前提とした内容となっているように思えます。捕らえられ裁判にかけられたときにどうするか、が問われます。イエス様の仲間であることを告白するのか、否定するのか。また何をどう言い訳しようか、何を言おうかなど心配してはいけないとイエス様は語ります。つまり聖霊が語るべき言葉を教えてくださるから、と聖霊の働きに信頼すべきことを教えています。
- すると聖霊を冒とくするとは何を意味しているのでしょうか。マタイやマルコ福音書では、別な文脈で聖霊を冒とくすることは赦されないと語っています。文脈は異なりますが、両方とも聖霊の働きを信じない、否定することをイエス様は問題にしているように思えます。ルカのこの箇所においては、イエス様のことを知らないと言うことは聖霊を冒とくすることになるとイエス様は教えているように思えます。なぜなら聖霊は、語るべき言葉を与えてくださるのですから、それを信じて、自分がイエス様の仲間であることを言い表すことが大切なのだと考えます。
- パウロは、聖霊によらなければ誰もイエスは主であると言えないと教えています。イエス様は主であるとの告白は聖霊の導きによりますから、これを否定することは、聖霊を侮辱することになるのだと考えます。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)8節。イエス様は、私たちのことをイエス様の仲間であると見てくださっています。私たちはイエス様の仲間なのです。うれしい言葉です。
- (御子)8節。そこでイエス様は、私たちが自分のことを「イエス様の仲間である」と人々の前で告白することを願っておられます。そして終わりの日の裁きにおいて、私たちのことを、イエス様の仲間であると神さまの前で証言して下さることを約束して下さっています。
☆神さまが私たちに求める生き方
- (勧め)8節。イエス様の仲間とされていることを喜び、人々の前で自分はイエス様を仲間であると告白すること。つまりイエス様の仲間として生きていくこと。イエス様のことを知らないような生き方はしないこと。イエス様の仲間とされている喜びを伝えていくこと。
- (警告)10節。聖霊を冒瀆してはいけない。
- イエス様のことを救い主と信じることは、聖霊の導きによることであり、私たちは聖霊の導きを得て信仰者になりました。信仰に導かれ、イエス様の仲間とされたものが、イエス様のことを知らないと否定することは、信仰を導いてくれた聖霊を冒とくすることになります。
- 日常の生活で、自分をイエス様の仲間と考えて生活していくなら、もし捕らえられても、イエス様のことを告白していくことができます。何を語るべきか、聖霊が教えて下さいます。私たちを信仰に導いてくださる聖霊の働きは、裁判の場でも、私たちの今の平凡な生活の中でも、私たちを導きます。聖霊の働きを信じることが大切です。
- 聖霊は、み言葉を通して私たちに働いてくださいます。説教を聞くとき、聖書を読むとき、応答していくとき、聖霊が働いてくださいます。説教を聞きっぱなし、聖書を読みっぱなしは、聖霊の働きがないことを告白しているようなものです。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神様、今日の聖書で私は、イエス様が私たちのことを仲間と見てくださっていることに喜びを覚えました。12章の最初でもイエス様は、「友人であるあなたがたに言っておく」と語られ、弟子たちは、同時にイエス様の友人であり、仲間であるとされています。同志なのですね。このことを私は喜びます。それ故、イエス様と志を同じくし、イエス様の仲間となって歩んでいきたいと願います。
- 牧師を隠退した今、自分にできることは限られています。その中で、イエス様の同志として歩みたいです。一つは祈りですね。日々祈ることを何よりも最優先にする歩みを始めましたが、このことは続けていきます。そしてこのディボーションを証しとして公開するサイトの運営も、イエス様と志を同じくするものとして行いたいと思います。イエス様と志を同じくするものとして行えることを祈りの課題に追加します。
- 色々な雑事がありますが、祈りとディボーションを最優先にする生活をして生きたいと思います。ディボーションは聖霊の導きなくしてはできないと信じていますので、自分が聖霊の導きの中に置かれていることを信じて感謝します。なおこれからも聖霊様の導きをお祈りします。
☆与えられた導き
- イエス様の仲間、同志として、このサイトを運営することを祈りの課題とする。
- 祈りとディボーションを最優先にする生活にする。早起きを心がける。