2018年12月17日
(内容)
イエス様は御自分のもとに乳飲み子が連れてこられたとき、彼らがイエス様のもとに近づくのを叱った弟子たちを抑えて、神の国についての教えを説かれた。
(黙想)
- イエス様は乳飲み子を祝福されたとは書かれていない。事の成り行き上、手を置いて祝福されたと思うがルカはそこまでは書かない。イエス様の教えに重点を置いているのだろうか。
- 神の国は乳飲み子のような者たちのものであるとイエス様は語る。ここでは神の国は、終末に実現する神の国というよりは、今、ここにおける神の御支配を意味すると考えるのがよい。神の国はあなたがたの間にあるとイエス様は教えられた(17:21)。人は、神の御支配を信じて生きていくことが大切なのである。乳飲み子、幼子は、親が自分を守ってくれることを信頼している。そのことを意識していないかも知れないが、親の保護を疑うことなく生きている。今日、残念なことに親が子どもに暴力を振るう現実がある。親の保護、愛を無条件に信じられない子供たちがいることは忘れてはなるまい。
- 一般論として幼子は親の保護の中に置かれている。子供は親の保護を疑うことはないし意識すらしない。そのように、神の御支配を無条件に信じることが大切であり、無条件に信頼する人にこそ、神のご支配の恵みが与えられる。
- その昔、イスラエルの民は神の助けを得て、奴隷状態であるエジプトから解放され、自由に生きる土地を目指して旅をした。彼らに求められたのは、神に対する全面的な信頼である。旅の途中で困難が起きるとイスラエルの民は、神に対する無条件の信頼をしなかった。神の御支配を信じなかったのである。神の御支配を疑ったのである。
- 神の御支配は信じる者に対して意味があるし、信じる者に対して御支配が与えられると言ってよい。
- 「子供のように神の国を受け入れる」とあるが、子供は素直に親の保護を信じる存在。そのように心からの信頼をもって神の御支配を信じる人が、神の御支配の中に入れる。このように主イエスは教えられたのではないだろうか。
- 人々がイエス様のもとに乳飲み子を連れてきたのは、祝福を求めてである。乳飲み子のこれからの歩みの上に神さまの祝福を求めたのである。乳飲み子と共に神がおられ、神が乳飲み子たちをいつも祝福してくれるように願ったのである。終末の時に神の国に迎えられることがテーマとなっているのではない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御父)神さまの御支配は、常に私たちの上にある、これが私たちの信仰である。
- (御子)イエス様はそのことを教えている。幼子のように素直に心からの信頼をもって神の御支配の中を生きることが大切。だから、祝福を求めに来た者を断ってはいけない。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)神の御支配を信じて歩むこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、私たちはあなたのご支配の中を生きています。そしてあなたの御支配を信じます。あなたは必要な導きを与えてくださいます。このことを信じます。
- 次週のクリスマス礼拝は、説教の奉仕です。説教テキストとしてルカの2章、天使たちが羊飼いに救い主の誕生を告げた場面を選びました。そして天使の賛美「いと高きとろこには栄光、神にあれ、地には平和、御心にかなう人にあれ」を取り上げたいと思いました。この天使の賛美に主イエスが来られた目的、つまり福音が表現されていると思いました。この賛美の中に、どのように福音を読み解くのか、一つの挑戦で、ためらう気持ちがあります。
- 今日の聖書は、神の御支配、神の導きに信頼するようにと教えられましたので、祈ってチャレンジしたいと思います。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 神の導きを信じて説教の準備をする。