2019年1月22日
(内容)
- イエス様は神殿の境内で民衆に「ぶどう園の農夫」のたとえを話された。イエス様はご自身が死に追いやられることをご存じであり、そのことを語られたことになる。
(黙想)
- 旧約聖書を踏まえれば、このたとえはイスラエルの民が神が送られた預言者たちに聞き従わず、時には殺し、ついには神が送られた救い主をも死に追いやることを物語るたとえであることが分かる。
- このたとえを聞いていた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。「そんなこと」とは何をさしているのか。農夫たちがぶどう園の主人の息子を殺したことか。それともぶどう園の主人が農夫たちを殺すことか。ぶどう園をほかの人たちに与えることか。「そんなことがあってはならない」との言葉を聞いて、イエス様は詩編の118編22-23節を引用し、「こう書いてあるのは何の意味か」と問いかける。
- 家を建てる者が捨てた石が、家を建てる時に必要な隅の親石になった、との意味。つまりイスラエルの人々によって排斥され殺されたイエス様が、イスラエルを神の民とするために必要なメシアであるとの意味。イエス様は詩篇の言葉を突きつけ、これは何の意味かと民衆に問いかける。イエス様はご自身がメシアであることを語っておられる。メシアとして自覚的に自分を明らかにするイエス様の姿をルカは描いている。
- 群衆が「そんなことがあってはなりません」は、ぶどう園の主人の息子が殺されるようなことがあってはなりません」と言ってるのではないか。
- 律法学者や祭司長たちは、イエス様が自分たちに当てつけてこのたとえを語ったことに反発し、イエス様に手をくだそうとしたが民衆を恐れたとある。手を下すことはできなかった。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)ご自身がメシアであることをたとえで語られる。イエス様はメシア救い主である。
- (御子)17節。イエス様は殺されるが、殺された者こそ、救い主、メシアである。イエスはご自身がメシアであることを詩編の引用によって明らかにしている。
- (御子)17節。イエス様はやがて自分が殺されることを受け入れている。神の御心として受け入れている。ぶどう園の主人の息子が農夫たちに殺されることを語り、自分が父なる神の子として殺されることを語っている。
☆神が私たちに求める生き方
- (警告)18節。隅の親石の上に落ちる者は打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちるなら、その人は押しつぶされてしまう。つまりイエス様に敵対する者は、大いに傷つくという。イエス様を拒んではならない。
- (警告)19節。律法学者や祭司長たちは、イエス様に手を下そうとした。殺そうとしたが民衆がいるのでできなかった。律法学者や祭司長たちは、自分の立場を絶対化してしまい、メシアとして来た方を受け入れることができなかった。私たち人間は神の前に罪を犯す存在、そのような自分を絶対化することはできない。神の言葉を聞いて悔い改めるべき時には、悔い改めなければならない。自分を変えるべき時は変えなければならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、イエス様がご自身の死に向かいながら、なおメシアであるとの自覚に立ち、メシアであることを伝えていく姿に心打たれます。老いた者が死に向かうのは自然のことですが、イエス様が死に向かうのは、あなたの御心を受け入れてのことです。あなたの御心であれば、死さえ受け入れて歩む、尊いことだと思います。
- 私たちの死もあなたに召されての死と考えれば、あなたの御心の中にあります。あなたは十分生きた、と言われて召されるのであれば、幸いなことだと思います。先日いやな夢を見ました。内容は忘れましたが、信仰の空しさを訴えるような夢でした。私たちの死は、あなたに召されての死、あなたの御心の中にある死であることを確認します。私たちもまたしに向かって歩む者ですが、なおキリスト者としての証しをしながら歩んでいきたいです。
- 今の自分、老人とは思いたくありませんが、自分の死を意識せざるを得ない者として、今自分が生きている場所でどのように証しをして生きていくのか、あなたの御前で。それは必ずしも人に見せるものではなくて、ただあなたの御前に歩む者としての証し。そして今の私にできること。何よりも聖書を読んで生きることです。聖書が今の自分に何を語りかけているのか、それを聞いて生きることです。
- 天の父、先日トゥルナイゼンの葬儀説教に引用されていた聖句の一覧表を作りましたので、一番目に引用した聖書の言葉を思いめぐらすことにします。トゥルナイゼンは、神の国を「目がまだ見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」ものだと語っています。漠然と神の国を考えるのではなく、私たちの思いを越えたものと受けとめたいと思いました。きちっと思いめぐらして文章にまとめたいと思います。
☆与えられた導き
- 聖句を思いめぐらす。コリント一2章9節。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、 人の心に思い浮かびもしなかったことを、 神は御自分を愛する者たちに準備された」。