2019年3月22日
(内容)
- イエス様は弟子たちにパンとぶどう酒を弟子たちに配られました。また裏切る者がいることも語られました。
(黙想)
- 教会の礼拝で聖餐にあずかる。その時、パンとぶどう酒について、「これは・・・わたしの」と司式者が語る。今日聖書を読んで、あらためて思ったことは、イエス様が弟子たちにパンとぶどう酒を与えられたこと。そして、私たちもパンとぶどう酒を受ける時、「これは・・・わたしの」というイエス様の声を聴くことが大事であると思わされた。
- 聖餐式は一種の儀式。儀式が儀式化してマンネリ化することがある。僕にとって大切なことは、イエス様の声を聴くこと、あたかも弟子の一人となって、聖書に書かれているあの食事の場に臨席すること。イエス様から直々にパンとぶどう酒をいただくこと。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエス様は弟子たち一人一人にパンとぶどう酒を与えられた。イエス様は、私たちにもパンとぶどう酒を分け与えてくださる方である。イエス様が私のために十字架の上でいのちを犠牲にしてくださったことを新鮮に覚えるために、「これは・・・わたしの」と司式者が語るとき、司式者を通してイエス様が語っていると受けとめて聖餐にあずかりたいと思う。自分の中で、聖餐を儀式化しないために。
- (御子)22節。「人の子は定められたとおり去って行く」と語られた。神さまの定めに従い十字架に向かい、死を遂げるのである。イエス様にとって死は、御心に従っての死であった。パウロは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)とイエス様のことを語る。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)イエス様は、私たちにもパンとぶどう酒を分け与えてくださる方であるなら、「これは・・・わたしの」と司式者が語るとき、司式者を通してイエス様が語っていると受けとめて聖餐にあずかりたいと思う。自分の中で、聖餐を儀式化しないためにも。
- (模範)イエス様は、「人の子は定められたとおり去って行く」と語られた。神のみ心に忠実に歩み、最後を迎えようとしている。神さまはイエスの生涯の最後を定められた。私たちも自分の生涯の終わりを神さまの定めの時に起きることとして受け入れることはイエス様に倣うことではないか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、礼拝で聖餐にあずかりますが、儀式化する懸念を抱きます。本当に感謝してパンとぶどう酒をいただくために、直接イエス様からいただく思いになることの必要を教えられました。「これは・・・わたしの」と司式者が語る時、イエス様の声を聴く思いで、聖餐にあずかることができるように導いてください。
- またイエス様は「定められたとおり去って行く」と語られ、神さまのみ心に従い、十字架の死に向かって歩まれました。私たちも、命を与え、命を取られる神さまのみ心に従って生き死ぬ者であることを思います。神さまの定めとして自分の死を積極的に受け入れるということは考えたことがありませんでした。イエス様のように、神さまのみ心としての自分の死を受け入れることを思いめぐらしてみたいと思いました。自分の死をいかに受容するか、それは私の信仰の課題です。今日は主イエスに倣って、あなたの定めとして死を受け入れることを教えられました。感謝します。
☆与えられた導き
- 聖餐式の時、イエス様から直々パンをいただくとの思いを持ち、イエス様の声を聴くよう心がける。
- 自分の死を、神さまの定めとして受け入れることを思いめぐらす。それはイエス様を模範とすることでもある。
~~~黙想 テーマ ~ 自分の死を神さまの定めとして受け入れること。
- 人は永遠に生きるわけではなく、寿命が尽きれば地上の生涯を終えることはだれもが知っている。若い時には、終わりの日が来るとは思えない。現実感がない。老いた今の僕には、その日の到来は現実感がある。その日がいつ来てもおかしくない。
- 生涯に終わりの日が来ることは知っているし、覚悟はある程度で来ている。キリスト者の場合、神の国に迎えられるとの希望がある。僕自身は、召される日が来たら、「よくやった。私のもとに来なさい」との神さまの声を聞かせてくださいと祈っている。この乗りを思いついたことをうれしく思っている。この声を聞いたことを他の人に伝えることはできないかもしれないが。
- 命の終わりを神さまが定めておられるということは、神さまが私の人生を顧みてくださっているということだ。いのちの初めを与え、終わりを与える。神さまの御手の中に僕の人生があることを確信してよい。神さまの知らないところで、僕が寿命が来て死んでいくということではない。神の定めとして人生の終わりが来ること、それは自分の人生は神の顧みの中にあることを教えている。
- 自分の人生が神の顧みの中にあることは、自分の死を受け入れやすくする。