2021年6月4日
(内容)
- イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒野でサタンから誘惑を受けた。洗礼者ヨハネが捕らえられた後ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え始めた。
(黙想)
- 洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。人々はヨハネのもとに来て洗礼を受けた。イエスもヨハネのもとに来て洗礼を受けた。それはなぜか。マルコは理由を書かない。マタイ福音書では、それは正しいことだからとイエスはヨハネに語り、洗礼を受けている。ルカ福音書は、マルコ福音書と同様、イエスが洗礼を受けた理由は書いていない。
- イエスが洗礼を受けたとき、イエスの上に聖霊が降り、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。イエスの上に聖霊が降り、天からの声があったことは、マタイもルカも書いている。
- この天からの声は詩編2:7、イザヤ42:1を反映している。イエスは神の子である。神の御心にかなう者とされる。イエスは神の子として、この世界に遣わされたことになる。そして神の子であるイエスは聖霊を受けて、その活動を始めた。神の子であるイエスは聖霊を受ける必要があったのか。それは分からない。イエスは聖霊に導かれて荒野に行きサタンの誘惑に遭われた。
- 誘惑の内容についてマルコは書かない。マタイとルカはイエスが三つの誘惑に遭ったことを書いている。マルコの記述は簡略である。マルコはイエスの誕生についても書かない。マルコはイエスが遭った誘惑については何も書かない。誘惑は、福音を伝える者にはいつもつきまとうことが暗示されているように思う。
- イエスはガリラヤで福音を宣べ伝えていった.「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。神の国は近づいた。だから悔い改めて福音を信じるようにイエスは求めた。マルコは、イエス・キリストの福音を伝える。イエスは神の福音を宣べ伝える。「神の国は近づいた」、これがイエスが語る神の福音である。神の国は神のご支配を意味する。今や、神の民イスラエルを救う神の御支配が現れたという。
- マルコが引用するイザヤ書は第二イザヤである。彼はバビロン捕囚の終了後、神がイスラエルを再興することを伝えた預言者である。第二イザヤが繰り返し語ることは、イスラエルが主なる神を知ることである。つまり主なる神を知り、神の民として真実に生きるようになると語る。旧約に描かれているイスラエルの民は、偶像礼拝をして神を怒らせている。神を知り、神を畏れ敬って生きるようになる、それが救いであり、それが具体的に実現する時が来たのである。悔い改めるとは、個々の罪を悔い改めるというより、生きる姿勢として神と向き合って生きる、神との交わりに生きる、神を礼拝し神を畏れ敬って生きることを目指すことである。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
<勧め>悔い改めること
<勧め>福音を信じること
<警告>誘惑に気をつけなければならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。洗礼者ヨハネは罪の悔い改めを得させる洗礼を水で施しました。来たるべきメシア、イエス様は自分より遙かに優れた方であると洗礼者ヨハネは語りました。そのイエス様は神の御支配を語りました。あなたのご支配はどのように信仰者に対して働くのでしょうか。
- それはこれから語られることになりますが、マルコはキリストの福音を語ろうとします。キリストは救い主ですが、どのような救いをわたしたちに与える方なのでしょうか。福音を罪の赦しに限定して理解する理解が広まっているような気がして、私は危機感を抱いています。
- 神さまのご支配は、イエス様を信じる者の罪を赦し、さらには罪からの再生、新しい人として罪に打ち勝って生きる、そのようなことを可能にするのではないでしょうか。私はそのように信じています。このことを念頭に置いて、マルコ福音書のディボーションを続けたいと思います。
- 信仰に生きようとする者にはさまざまな誘惑があります。牧師に対してもあります。私自身も悪魔がもたらす誘惑に直面し、これと戦ってきたことを思いますし、またこれからもあることを思います。誘惑に遭うとき、あなたに祈ります。力を貸してください。
☆与えられた導き
- 神様のご支配はどこに向けられるのかに注意してマルコ福音書のディボーションを続ける。