マルコ福音書 1章29~34節 神の御支配

2021年6月25日

(内容)

  • イエスはシモンとアンデレの家に行った。そこでシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、お癒やしになった。また日が沈むと人々は病人や悪霊に取り憑かれた人を連れてきて、イエスに癒やしてもらった。

(黙想)

  • ここには癒やしの出来事が描かれている。イエスは病気を癒やす力、悪霊を追い出す力を持っており、病気や悪霊で苦しんでいる人を癒やされた。苦しみから解放した。これらの出来事は何を意味しているのだろうか。
  • イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語った。このメッセージと癒やしの出来事はどう関連づけられるのか。神の国は神のご支配を意味する。イエスは神の御支配の中に生きるよう人々を招いた。病気の癒やし、悪霊の追放は神の御支配の「現れ」「しるし」と考えることができる。
  • 僕の経験上、病気の癒やしをイエスの名によって祈っても即座に病気が治ることはあまりないというか、ほとんどなかった。現代では病気になれば病院に行って診察を受け適切な医療を受ける。イエスのいやしは模範ではない。しかし死が確実と見なされる場合を除いて、信仰者は基本的に病人のためには癒やしを祈るべきである。適切な医療措置が行われ癒やされることを願う。人間の思いを越えて癒やされることを願うこともあるだろう。さらに病人の心を神さまに近づけるために祈る。
  • ちょうど出エジプトの出来事が神の救いとは解放であることを告げるように、イエスのいやしも象徴的というか、一種のモデルのような意味を持つのではないか。神の支配の中に生きる恵み、幸いを示している。神のご支配は、病気の癒やし、悪霊の追放に限定されるのではなく、我々の生活のもっと広い範囲に及ぶと考えてよいのではないか。イエスが十字架についたことは、神の御支配の霊的な面を示唆する。
  • この場面で、イエスは人々の求めに答えられた。神の御支配をまざまざとお見せになった。イエスは神の御支配を現実にお見せになった。これがこの場面の意義ではないか。
  • イエスは悪霊を追い出しつつ、悪霊にものを言うことを許さなかったとある。これはどういうことか。理由としては、悪霊をイエスを知っていたからとある。1章24節では汚れた霊に取り憑かれた男がイエスに「お前の正体は分かっている。神の聖者だ」と語っている。これは汚れた霊の言葉といってよい。汚れた霊は自ら言葉を出すことはできない。取り憑いた人間を通して語ると思われる。イエスは「黙れ」と叱った。
  • イエスは、なぜ悪霊のものを言うことを許さなかったのか。悪霊はイエスが誰かを知り語る。しかしそれは信仰の告白ではない。悪霊はイエスを崇めることはない。だから黙らせたのではないか。イエスに対する告白は真実な告白であるべきだ。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは病人を癒やし、悪霊を追い出す方。それは神の御支配のしるしであり、神の御支配があることを示された方。神の御支配を証しした方。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様は病人を癒やし、悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出し、神様のご支配があることを見える形で示されました。天の父よ、そこで思います。あなたのご支配は、霊的な領域に及ぶのであり、特に罪に支配された人間をその支配から解放することを思うべきですね。この時代、病気は基本的に医療に任せればよいと思います。もちろんあなたの癒やしを祈りますが、奇跡を起こしてくださいと祈る気持ちにはなれません。あなたは人間に知恵を与え、技術の発展を許し、医療による病気を癒やす道を与えてくださっています。
  • あなたのご支配は霊的な領域に及ぶことを私たちは信ずべきであり、神の御支配は、私たちを罪の力から解放することを教えられます。このことは何としても伝えたいとの思いがあります。ブログでも折に触れて書いています。
  • 天の父よ、あなたは来月、説教奉仕の機会を与えてくださいました。説教のテーマとしては神の御支配による罪からの自由をテーマにしたいです。それをきちんと聖書の説き明かしとして語らなければなりませんので、ふさわしい聖書箇所を教えてください。あなたの導きをお願いします。
☆与えられた導き
  • 聖書箇所を示してくださいと祈り求める。

 

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