2022年2月4日
(内容)
- 赦しについてのイエスの教え。人を赦さないなら、神はその人を赦さない。
(黙想)
- 主の祈りの中で、「私たちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とある(12節)。他者を赦したことが自分の赦しにつながっている。14~15節はこのことを確認しているように思える。
- 14~15節は文字通りに読むなら、人の過ちを赦すか赦さないかによって、私たちの過ちが赦されるか否かが決まるとも読める。私たちの罪の赦しの条件が、他者の罪を赦すか赦さないかによって決まるとなる。そうすると私たちの罪の赦しは、私の行為によって決まることになる。これは聖書が教える救いとは異なる。聖書が教える私たちの救いは、キリストの十字架による罪の赦しである。
- そうするとイエスはなぜこのように語ったのか。イエスは誰に向かってこの教えを語られたのか。それはイエスを信じる者、イエスの救いを受けた者と言える。つまりキリスト者に向けた教えである。キリスト者とは、キリストの十字架による赦しを受けた者である。
- キリストによる罪の赦しを受けた者としてキリスト者がどう生きるか、それをイエスは教える。キリスト者は人の過ちを赦すのか否か。キリスト者は神の憐れみを受けて罪赦されている。それなら、キリスト者は他者に対しても憐れみを示し他者の過ちを赦すべきである。もし赦さないなら、それは身勝手となる。自分は神の憐れみを受けて赦されているのに、他者を赦さないというのは身勝手となる。その他者だって、悔い改め、イエスを信じるなら、神の憐れみを受けて赦されるのである。だから、赦すのが道理なのである。だから他者を赦さない者を神は赦さないというのがイエスの教えとなる。
- マタイ福音書の18章21節以下に「仲間を赦さない家来」のたとえがあり、上に述べたことと同じことを語っている。
- 時に、キリスト者があの人は赦せないと語ることがある。ひどい仕打ちを受けたので、赦したくても赦せないというのである。これはどうなのか。ここには、罪の比較がある。私の罪より、あの人の罪の方がはるかに大きい、と。人間の心理としてはわかる。ここには自分の義を主張する心がある。私はあの人ほど悪くはないと主張する心がある。
- 人を赦せない、赦そうとしない頑なな心を、頑なな罪を神は赦してくださると考えてよいのだろうか。イエスの教えによれば否である。結局、他者を赦せない人は、自分が赦されていることが分からないのである。本当に自分の罪の赦しを感謝する人は、他者の罪を赦すことができる。
- もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない、との警告は真剣に受けとめるべきである。
- 人を赦せない人は、その赦せない思いに束縛されて生きることになる。心は平安にはならない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>人の罪を赦さないキリスト者がいるとするなら、神はその人の罪を赦されない。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>キリスト者なら自分になされた他者の罪を赦すこと。
- <警告>そうしないと終末の時に、罪の赦しは選べず、滅びに入れられる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。私はあなたの守りの中で生きることができたことを感謝します。「赦せない」という思いを抱いたことを思い出せません。人からひどいことをされたことはあります。でも赦せないという思いは抱きませんでした。むしろ私は人々の赦しの中で生きてきたのかもしれません。「赦せない」との思いに束縛されることはありませんでしたが、私は別な思いに束縛されました。でも今は自由にされて感謝です。
- キリスト者でありながら、赦せないという思いを持っている人がいると思います。その人の罪を神は赦されないとイエス様はおっしゃいました。赦せない思いに縛られているキリスト者が赦しの心を持つことができるように祈りつづけたいと思います。
☆与えられた導き
- キリスト者が他者を赦せるように祈る