2025年4月1日
(内容)
- ある人が畑に良い種を蒔いた。ところが毒麦も生えた。刈り入れの時、毒麦を処置すればよい。
(黙想)
- イエスは天の国のたとえを語られた。天の国のたとえ、どういうことか。終末が来て実現する神の国、天国がどのようなものを語るたとえではない。むしろ神の御支配についてのたとえと考えてよいと思われる。
- ある人(畑の主人)がよい種を畑に蒔いた。これは種を蒔く人のたとえと似ている。
- 人々が眠っている間に敵が来て毒麦の種を蒔いた。よい種の麦も、毒麦の種もそれぞれ成長し、実り始めた。すると毒麦の生えていることが分かった。僕(しもべ)たちは、毒麦を抜くか否か、主人の指示を求めた。すると主人は、もし毒麦を抜こうとすると間違ってよい麦も一緒に抜くかも知れないので、刈り入れまでそのままにしておくように指示する。そして刈り入れの時に毒麦を集めて束にして焼き、よい麦は倉に収めるように指示した。
- よい種とは神の言葉、福音である。この種は世界に蒔かれる。しかし敵が来て、毒麦の種を蒔く。それが成長する。つまり偽りを信じる人が生まれる。刈り入れとは終わりの日の裁きと考えることができる。
- 使徒パウロは、ガラテヤ教会に偽教師が現れ、教会を混乱に導いたことを知り、ガラテヤ教会に手紙を書いた。パウロが伝えた福音から、ほかの福音に乗り換えたと批判している。ほかの福音とは、パウロが宣べ伝えた福音とは違うものである。
- 福音が宣べ伝えられ、信じられ、よい実を結ぶところに邪魔が入る。よい麦ではなく、毒麦。似て非なるものである。種はよい種か毒麦の種か、どちらかである。見た目は似ているかも知れない。実を見なければ区別できないのかも知れない。偽教師は、まともなことを教えているように見せて、あるところで偽りを教える。
- 現代では、神学校を卒業した人が牧師として教会に派遣される。牧師としての姿勢に問題のある人がいる。そのために教会員が教会を去るという出来事が起きる。毒麦のような牧師。でも毒麦のような牧師と断定はできない。悔い改めるかも知れない。牧師のことで悩む人が、このたとえを読んだらどう思うのか。
- 先日久しぶりに会った知人の牧師が最近劣悪な牧師が増えていると話してくれた。自分に従わない人を結果的に教会に来なくさせる。悲しい事実である。牧師の場合は、悔い改めるかも知れないし、またそうなることを願う。私たちは他者を指して毒麦のような信仰者と言うことはできない。できることはその人のために祈ることだ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>毒麦は刈り入れの時まで放置する考え方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>毒麦の存在は確かであるが、抜かない。
(神の導き)
☆祈り
- 父なる神さま、今日もディボーションをすることができ感謝です。
- 時々、牧師との関わりで教会を離れる人がいることを聞きます。長年教会に仕えていた人が去るのです。心が痛みます。その牧師も、あなたによって召され、牧師の働きについた人です。畑に良い種が蒔かれても、そこに毒麦が生えるというたとえは私たちの現実を映し出すたとえに見えます。勿論、あの牧師は毒麦だと断定することはできません。どの牧師も完璧な牧師ではなく、欠点もあり、不足な点があります。それ故、謙遜に神さまと教会に仕えるべきです。時に私たちは牧師交代を祈ることもあります。
- 今日の聖書は、毒麦は抜かないようにと教えられています。刈り入れの時に、終末の時に毒麦は集められ焼かされるとあります。でも毒麦のような牧師が毒をまき散らすような働きをしているとしたら、何とかして欲しいとあなたに祈りたくなります。確かなことは、そのような牧師が悔い改めることを祈ることは大切だと思います。また祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- 牧師のために祈る。