2022年4月13日
(内容)
- イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをおみすてになったのですか」と大声で叫ばれた。その後、間もなくして大声を出して息を引き取られた。
(黙想)
- イエスは9時に十字架につけられた。そして昼の12時に全地は暗くなった。それが3時まで続いた。そして3時にイエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた。
- 全地が暗くなった3時間の間、イエスは何を経験したのか。神に見捨てられる経験をしたと言える。私たちは神に見捨てられるということがどういうことか分からない。しかしイエスは経験した。そして叫んだ。
- イエスはご自分が人間を罪から救うために自分の命を犠牲にすることは知っていた。
マルコ10:33~34
今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。
- イエスはご自分が死ぬこと、そして復活することは知っていた。しかし死んでから復活するまで何が起きるのかは知らなかった。死ぬ直前から、何かただならぬものを感じていた。そしてそれは神に見捨てられることであると分かってきた。イエスは神に見捨てられつつあることを何らかの形で知り、あのように叫んだ。
- イエスはそれまで神と共に歩んできた。祈りを通して神との交わりに生きていた。イエスには神と共に生きているという感覚がある。自分が神と共にあることを実感している。十字架の上で、あたりが真っ暗になっている時に、その感覚が失われた。その途端、神に見捨てられるというとてつもない感覚を得た。
- イエスは救い主として罪に対する神の怒り、神の裁きを十字架の上で受ける。それは言い換えると、神に見捨てられることである。旧約聖書では、神の祝福は次のような言葉で言い表される。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア1:5)。神の怒りは、見捨てるという形で表れる。
- 死の恐怖を覚えて震えおののく体験は、神に見捨てられる体験に似ているのではないかと思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>十字架の上で神に見捨てられる経験をし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>神の裁きとは、神に見捨てられることと教えられる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様が十字架の上で叫ばれました。イエス様は十字架の上で、あなたの怒りを受け、罪に対する裁きを受けられました。イエス様はあなたに見捨てられるという経験をされました。イエス様は、自分が人間の罪のあがないのために十字架の上で死ぬことは知っておられました。そこにはただならぬ苦しみのあることも予感されていました。だからゲッセマネの園でもだえて祈られました。そして十字架の上で、あなたに見捨てられることを味わいました。神に見捨てられるということがどういうことなのか、私たちには分かりません。
- しかし日々の生活で神が共におられることを信じ平安を得て生きている生活が、もし神に見捨てられたら平安を失うことは確かです。そればかりか、思い煩いに支配され、不安や恐れを抱いてこの世の生活をしなければなりません。多くの人が神なしに生き、不安や恐れ、思い煩いを抱いて生きています。
- 現世においても神さまなしに生きることは想像できないとするなら、永遠を神なしに生きることは大変なことと思います。イエス様は神に見捨てられる裁きを受け、私たちを救ってくださいました。このイエス様の体験を思うとき、罪からの救いとは何かを考えさせられます。
- イエス様があなたの罪に対する怒り、罪に対する裁きを受けられたので、私たちは、あなたの怒り、裁きを受けることがなくなりました。責めを受けることがなくなりました。私たちは安心して、あなたとの交わりに生きることができるようになりました。
- 神さまはイエス様を信じる者の罪を思わないことを信じます(エレミヤ31:34、ヘブル10:17)。キリスト者のアイデンティティーが神の子であり、義とされた者であることを信じます。
- ある牧師が信徒に、自分たちの罪を忘れてはいけないと語ったと聞きました。神さまが忘れてくださるというのに、自分で忘れてはいけないとはどういうことでしょうか。罪の赦しを受けたクリスチャンのアイデンティティーについて、今一度ブログに書きます。礼拝説教する機会が与えられたら、神が私たちの罪を思い出さないことについて説教したいと思います。
☆与えられた導き
- クリスチャンのアイデンティティーについてブログに書く。