マルコ福音書 8章11~13節 神への徹底した信頼

2022年6月4日

(内容)

  • ファリサイ派の人々がイエスのもとに来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスはしるしを与えることはしなかった。

(黙想)

  • ファリサイ派の人々は、イエスのもとに「来て」、イエスを「試そう」とし、天からのしるしを「求め」、議論を「しかけた」。ここには議論の内容は書かれていない。何を試そうとしたのか。
  • マルコ福音書に登場するファリサイ派の人たちは、まずイエスが行った病人の癒やし、悪霊の追い出しを知っている。これらのことをイエスが行ったことは認めている。しかしイエスが安息日に病人をいやしたとき、イエスは安息日の戒めを破ったと理解し、イエスを殺す相談を始めている(マルコ3:6)。
  • ファリサイ派の人たちは迷っていたというか、判断できないでいたと思われる。すなわちイエスが神から遣わされた者なのか、そうでないのか。そこで天からのしるしを求めた。しるしを見せてくれれば、イエスが神から遣わされた者であると信じることができる。
  • イエスは「どうして今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう」と心の中で嘆かれた。素直に信じない人間の頑なさを嘆かれた。自分が信じることのできるものは信じるが、そうでないものは信じない、もし信じて欲しいならしるしを見せろ、との頑なな態度、神への畏れのない態度をイエスは嘆かれた。
  • 信じることには疑いが伴うものである。疑いをもたない信仰は徹底した信頼となる。疑わずに信頼することで似ているものとして盲目的に信じる信仰がある。徹底した信頼は盲目的な信仰とは紙一重である。しかし内容的には、大きな違いがある。徹底した信頼は人格的な信頼だが、盲目的な信仰は、根拠なき信頼である。
  • そして神に対して徹底した信頼をおくことができないのが人間である。必死に神に祈り求めたことがかなえられないことを経験すると小さな神への不信が心に宿り続ける。このような不信を抱えながら、神を信じて人は生きて行く。人はしるしを求め、信じて大丈夫だとの確信を得たいと考える。
  • ここにはひとつ、問題がある。疑いを心の内にひそめている信仰は、神中心ではなく自分中心の思考、信仰であること。自分中心から神中心への信仰に向かう、それが信仰の成長である。信仰とは、徹底した神信頼。イエスへの信頼。なぜしるしを求めるのかとイエスは不思議に思われる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>しるしを求める態度を不思議に思う。イエスご自身、神への徹底した信頼の中に生きている。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>徹底した神信頼に生きること。それは神中心の信仰。神第一の思考。自分中心の思考からの脱却。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、しるしを求める態度を不思議がる主イエスに注目します。しるしを求める心が私にあることを告白します。そして老いた今、あらためて思います。自分の信仰を変えるチャンスはそう多くはないと。それゆえ、今日を境に、今まで以上にあなた中心の思考に歩みます。徹底した信頼に歩もうと思います。導いてください。主イエスはわたしの内におられます。主よ、導いてください。あなたに喜んでいただける歩みをしたいです。
  • 理性で考えるのではなく、信仰で考えるべきことを思います。この世の神は、私たちの心の目をくらまします。信仰の目で見ることができるように導いてください。
  • 最近気づかされたことがあります。祈りはあなたの御心がなることを祈ることです。このことは毎日祈る主の祈りで明らかなことですが、深く考えずに主の祈りを祈っていたと思わされました。天の父よ、悔い改めます。祈りが自分の願った通りにかなえられるか否かに、執着しないことにします。あなたの御心がなると信じて、祈り続けます。
☆与えられた導き
  • 結果に執着せず、神の御心は実現すると信じて祈る

 

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