2022年6月14日
(内容)
- イエスのもとに人々が盲人を連れてきた。イエスは彼を村の外に連れて行き、目が見えるようにされた。
(黙想)
- 奇跡物語であるが、この物語がこの福音書の中に置かれている位置に注目する。つまり直前の段落では、弟子たちの心の鈍さをイエスが叱っている。この段落の次の記事は、弟子たちがイエスが誰か信仰を告白する場面である。そしてこの箇所で盲人の目が開かれ、目が見えるようになっている。つまりこの箇所は盲人の目がただ見えるようになったというより、人間の心の目、霊の目が開かれることを語る。
- 弟子たちの心の目が開かれたことを暗黙の内に語り、次の段落で弟子たちがイエスが誰かを告白する出来事につながっているように思える。
- ということは、私たちの心の目もくらまされていることがあり、心の目が開かれ、霊の目が開かれ、そして物事を見ることの大切さを伝えているように思える。人は自分の目がくらまされていて見えないということは考えない。しかし見るには見るが見えず、聞くには聞くが理解せず、ということは自分に無関係のことではない。いつも自分に問いかける必要があるのではないか。
- 信仰に熱心に生きていればいるほど、自分は見えていると考えがちである。立ち止まり、自分は見えているのか、聞いて理解しているのか、自分に問うべきである。しかし、自分に問うて気づけるのか。
- 他者の意見・考えに違和感を感じたとき、自分の考えを検討すると、自分が見えていなかったことに気づくことがある。外からの刺激がないと、なかなか気づかないのではないか。この世の事柄については人の意見は多様であり、多様であっていいし、自分が見えていないということはない。むしろ信仰の事柄において、自分の考え・思いが他者のそれと違うとき、自分の考えは聖書に沿っているのか否か、検討できる。
- 自分がまだきちんと考えていない事柄があるので、それについては、考えることが必要となる。ひとつは「教会」をどう考えるのか。さらに聖書理解において自分の目が曇らされているとしたらこれは改めなければならない。この点では、『キリスト教教義学』(近藤勝彦著)を読み始めているので、自分の教理的理解を検証できると思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>目の見えない人の目を見えるようにする方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>自分は見ても見えないでいる可能性があると謙遜に考えること。自分は知るべきことを知っているなどとうぬぼれないこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、長年聖書を学び、聖書から説教をしてきました。また神学書からも学んできました。しかし聖書を適切に理解していない面がないとは限りません。救いについて、聖書が伝えることを理解することは努めてきました。福音理解という点で、少なくない人たちは福音を狭く理解しているという危機感を持って来ました。これについては祈りの課題としています。
- 聖書が語る「教会」について理解する点では、まだ不十分な気がしますので、理解をたしかなものにしたいと思います。日々の聖書通読で、教会について語っている書簡を優先させて読んでいきたいと思います。第一コリント、エフェソを読みます。
- また教理的な点では、近藤氏の本を読み進めたいと思います。二週間に一章を読むことにします。これなら無理がないと思います。
☆与えられた導き
- 聖書通読の時、まず第一コリント、エフェソを読む
- 『キリスト教教義学』を読み進める