2023年7月20日
(内容)
- 義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
(黙想)
- 天の国はその人たちのものであるという祝福は、この幸いの教えの一番最初、心の貧しい人たちが受ける幸いと同じである。天の国は、神のご支配と言ってよいと思う。神が共におられ、神の御支配の中に生きることができる。
- 「義」ということでは、義に飢え渇く人たちは幸いであるとの教えがあった。私たちはキリストを信じ、義とされる。これは義と認められることであって、義の実質が私たちにあるわけではない。罪を犯して生きてきた人間が義とされ、罪から清められ、義の実質を身につけ、聖なる者とされていく、そのことに飢え渇くことが言われている。もっと言えば、イエス・キリストに似た者となることに飢え渇くことを意味した。
- ここでは義のために迫害されるとある。何よりもイエス・キリストが迫害された。福音を宣べ伝えるパウロも迫害された。次のような言葉もある。
テモテ二 3:12
キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
- この世は神に敵対している。この世で神に忠実に生きようとすると迫害を受けるのは当たり前となる。今、この国でキリストの教会が迫害を受けているとはあまり聞かない。信教の自由が憲法で認められ、教会の活動は法の範囲で保証されている。
- キリスト者は世の中で生きている。世の人々との関わりの中で生きている。そこで世との軋轢を生み、迫害を受けることはある。
- 迫害を受けるのは、キリストに結ばれて信心深く生きる結果である。信心深く生きることが中途半端なために迫害を受けないということもあるだろう。
- 何よりもキリストに結ばれて信心深く生きることが課題となる。別な聖書では「信心深く」を「敬虔に」と訳している。神に忠実に生きること、神の御心を大切にして生きることを意味している。
- 信心深く生きるためには、信心深く考えることが前提になる。心にある思い、考えが行動となる。老いの中にある信仰者として敬虔に生きる、敬虔に考えるとはどういうことか。聖書から神の御心、教えに親しみ生きること、となるのか。
- 老いをいかに受けとめ、生きるのか、をテーマにした本は沢山でている。世の人が自分なりの考えをまとめていて、老いを生きるヒントを与えるかも知れない。しかしそれらはキリストに結ばれた人の考えではない。
- 老いた人の特徴は、自分の死を意識すること。心身共に弱まりが現実となること、それを受け入れて生きること、人によって違うが、人間関係が希薄になっていくことなどある。そのような中でキリストに結ばれて生きるとはどういうことか。自分はどう生きているのか。
- キリストに結ばれた者として、気になる聖書の言葉が一つある。
ヨハネ 11:25~26
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
- ここにはイエスの問いがある。「信じるか」との問いである。老いた者はこの問いに向き合う。「信じます」との答えをイエスは期待している。目の前にイエスがいて僕に問うなら、「信じる」と答えるだろう。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>キリストに結ばれて信心深く生きること
- <教え>迫害されたら、神のご支配の中に自分がいることを覚えて幸いと思うこと
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日は、キリストに結ばれて信心深く生きるべきことを教えられました。老いの中にある者にとって、信心深く生きるとはどういうことかと考えます。あなたの御心に従って生きることと受けとめます。み言葉に従って生きることと受けとめます。
- 老いの特徴として自分の死を意識して生きていること、心身の衰え、そこから生じる病気などの弱さを受けとめること、人間関係の希薄化、があると考えます。
- 今日は、主イエスの言葉を思い起こします。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
- 「信じます」と答えて生きていきたいと願います。この信仰に生きることができるように聖霊なる神の助けを与えてください。また祈りの時「復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神さま」とあなたに呼びかけて祈りたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- 祈りで神に呼びかけるとき、「復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神さま」と呼びかけることを実践する。