2024年2月26日
(内容)
- 主イエスは御自分の苦難と死を予告した。さらに弟子たちに自分について来るように語られた。
(黙想)
- 共観福音書はいずれも、ペトロの信仰告白、イエスの受難予告、山上の変貌をその順に語っている。
- この段落はイエスの受難予告と私ついてきなさいとイエスが語る説教の部分からなる。
- 最初に受難予告がある。イエスは多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されると語る。これらの人々は当時のイスラエルの支配階級をなしていた人たちである。しかもユダヤ教という信仰を背景とした勢力である。イエスは、信仰という点で彼らと対立し、特に律法学者たちを偽善者と批判し、彼らの反感を招き、命を狙われることとなった。
- 人は自分のために信仰に生きることがある。それは自分の命を得るためである。その場合、その信仰が、神ご自身が求める信仰となっているかどうかが問われる。イエスはその点を突いた。特に律法学者たち、彼らは神のいましめを教える立場の者であるが、彼らの偽善をイエスは公然と批判した。イエスは彼らの反感を買い、最後にはいのちを奪われた。しかし神はイエスを三日目に復活させた。
- 人は自分の信仰が神の御心に沿った信仰になっているのか否か、吟味する必要がある。人は自分を肯定したがるから、自己吟味は簡単ではない。一つの手がかりは、次の聖書である。
コリント二 13:5
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
- パウロは、あなたがたは自分自身のことがわからないのですかと問う。自分自身のことが分からないことが人間にはあるのだ。何が分からないのか。キリストが自分の内におられることである。キリストが自分の内におられることが分からないのですかと問う。ガラテヤ書でパウロはこうも言う。
ガラテヤ 2:19~20
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
- パウロは、キリストがわたしのうちに生きておられると語り、私は神の子に対する信仰に生きていると語る。私たちのうちにキリストがいると信じるなら、私はどのような信仰に生きているのか。そのような信仰に生かされていることを神に感謝し、神をほめたたえたい。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か。
- <御子>当時の宗教的指導者たちから排斥され、殺される方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>自分は神が求める信仰に生きているかどうかの吟味をする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、主イエスが弟子たちに受難予告された箇所を読みました。主イエスは宗教指導者たちから憎まれ、命を奪われることとなりました。
- 自分の信仰を振り返ります。自分はあなたが求める信仰に生きているのか、と吟味を迫られました。
- パウロはキリストが自分の内に生きているのか否か吟味しなさいとコリント教会の人たちに書きました。キリストが自分の内に生きているというと分けが分からなくなりますが、自分が神のみ言葉を大切にしているのは、キリストが内にいるからなのだと思うようになりました。世間の人は、み言葉を大切にしていません。世間の人と私の違い、それがキリストが内におられるから、私が御霊に導かれているからと考えています。
- 私はあなたに導かれる信仰に生きていると思いました。感謝です。今日は、あなたが私を信仰に導いてくださったことを感謝し、あなたをたたえたいと思います。
☆与えられた導き
- 神の導きを感謝し、賛美する。