2024年4月19日
(内容)
- 体のともし火は目であり、目が澄んでいれば全身が明るいが、目が濁っていれば、全身は暗い。
(黙想)
- この短い2節は前後の段落との関わりの中で理解することが大切である。19~21節では、富を積むことがテーマである。口語訳聖書では「富」が「宝」となっていた。
- 天に宝を積むか、地上に宝を積むかが語られ、天に積むことが勧められる。自分の心が何に向けられているのか、心が問題とされている。心は何を喜びとしているのか。人は自分が喜びとするものを大切にし、追いかける。
- 24節では、二人の主人に仕えることはできないとある。神と富に兼ね仕えることはできない。どちらに仕えるのか、意志が問題とされる。富に仕えるとは、地上に宝を積むことにつながる。おそらく人間の意志は、心に従う。
- 22~23節は何を教えているのか。目が澄んでいれば全身が明るい。全身が明るいとは、正しい選択ができるということである。天に宝を積む選択、神に仕える選択ができること。全身が暗いとは、正しい選択ができず、地上に富を積もうとし、富に仕える歩みをすること。
- あなたの中にある光が消えるとはどういうことか。私たちはもともと罪の中におり、地上の宝を求め、地上の宝に仕えていた。私たちはもともと目が濁っていたのである。私たちのうちにもともと光はない。
コリント二 4:4
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
- 私たちはイエス・キリストを信じた。福音の光を見た。福音が輝くような生き方、福音に生きることが大切である。そうでないと、福音の光が消えていく。
- 福音の光は何をもたらすのか。天の宝を積むように導き、神に仕えるように導く。目が澄んでいること、福音の光を消さないことが大切となる。
- 具体的にどうすれば、目が澄んでおり、福音の光に生きることができるのか。
- 何よりもいつも礼拝を大切にし、聖書に親しみ、神の御心に思いを向けて生きることが大切である。神中心の、神第一の生活をすることである。
- 主イエスから偽善者と批判されたファリサイ派の人たちは、信仰に生きているように見えるが、彼らは人々からよく思われることを大切にしていた。人々の賞賛、これは地上の宝・富である。信仰を手段として地上に宝・富を積むことがあることは注意しなければならない。
- 神に仕え、神をたたえて生きることが求められている。神を愛し、神の御心を大切にする心に生きることである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>私たちが仕えるべき方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神に仕え、神に従い、神を敬う心を育て、生きること。
- <警告>自分の目が澄んでいるか濁っているか、吟味する。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 澄んだ目を持つことを教えられます。それはみ言葉を学び、あなたを第一に、あなたを崇めて生きることです。あなたを愛して生きることです。
- 私自身はそのような生活をしているつもりですが、十分ではないことは知っています。昨日、ロイドジョンズ牧師の山上の説教の説教を読み、福音を深く掘り下げておられることを強く感じました。自分自身の生活を吟味するためにも、昨日読んだ箇所をまとめて、自分の糧にしたいと思いました。なおロイドジョンズ牧師からの学びを続けていきたいと思います。
☆与えられた導き
- 昨日読んだ箇所をまとめる。