ローマ 8章12~13節 信仰に立って肉の思いを絶つ

2024年8月9日

(内容)

  • キリスト者は神の救いの恵みに応答して生きていく責任がある。そのために内なる罪の働きを絶つことが求められる。罪との戦いに勝利することが大切である。それがキリスト者の責任である。

(黙想)

ローマ 8:12~13
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

  • キリスト者には一つの義務があるという。これまでのパウロが語ってきたことから考えると、それは肉に従って生きる義務ではなく、霊に従って生きる義務と言える。キリスト者は霊に従って生きるようにされた。
  • 人は洗礼を受け、キリストに結ばれてキリスト者になった。聖霊を賜物として与えられ、聖霊の導きの下に生きる者とされた。これは恵みである。それゆえ、キリスト者は霊に従って生きるという義務がある。言い換えると神の恵みに応答して生きる義務がある。肉の支配下にあった時は、律法を守らなければならないと考え、守りたくても守れないという悲惨さを味わっていた。今はそのみじめさから救われている。
  • キリスト者は肉の支配下から霊の支配下へ移された。肉の支配下にいないから、肉に従って生きる必要はない。肉に従って生きるという義務はない。霊に従って歩むという義務、神の恵みに応答して生きるという義務、うれしい義務がある。
  • 肉に従うなら死ぬ。上に述べた惨めさの中にあって、罪を犯しており、神の裁き、怒りを受ける者であった。しかし今は霊の支配下に移されている。
  • 体の仕業を立つことが課題である。体とは、私という人間を指すと考えてよいと思う。かつて私は神なしに生きていた。肉に従って生きていた。つまり自分の思いと欲によって生きていた。自己満足を求めて生きていた。自分中心に生きていた。この自分の思いと肉によって生きる傾向はキリスト者になったからといって消えるものではない。
  • 罪は、肉に従うという私たちの傾向を利用して、罪を犯すように働きかける。自己満足を求めて生きるように促す。自分のプライドを満足させるように働きかける。自分中心に生きるように働きかける。時にそれは神の御心に反するものである。
  • それゆえ、キリスト者はこの罪に対する働きかけと戦わなければならない。そのために「体の仕業を絶つ」ようにパウロは語る。自己満足を求める思いを捨て、自分中心に生きる思いを捨てて神の御心に従うことを選び、従い、これを喜ぶのである。
  • 自分がキリスト者であることを覚え、キリスト者らしく生きるのである。自己満足はむなしいと知るべきである。

ヨハネ一 2:16~17
なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方

  • <勧め>体の仕業を絶つ。

(神の導き)

☆祈り

  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝です。体の仕業を絶つように教えられました。体の仕業、自分の内にある肉の思い、肉に従う思いにどんなものが残されているのかと思います。
  • 老いを生きるに従って明らかになってきたことが一つあります。それは信仰に生きる上での確かさを求めるということです。私はあなたを信じる者ですが、あなたが本当におられるという確かさを求める心があります。それは、神の国は本当にあるという確かさを求める心でもあります。
  • この確かさを求める心を捨てなければならないと思います。捨ててどうしたらいいのでしょうか。主イエスを思い出します。ルカ福音書は、主イエスは「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」と言って息を引き取られました。私も主イエスのように「父よ、わたしの霊をあなたにゆだねます」と言って最後を迎えればよいことを教えられます。
  • またヘブライ書によれば、信仰とは確信することだと教えられます。

ヘブル11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

  • 望んでいることとは、聖書において約束されていることです。それを確信する、それが信仰だと教えられます。確信する、それは積極的な姿勢ですね。確信は与えられるもの、受け取るものではなく、自分はこれを選び取るというように、自分から確信することですね。
  • 確信を与えられるのを待つという姿勢をやめて、確信に立つという姿勢で歩むことにします。
  • 確信に立つことを告白し、私の歩みを祝福して下さるように祈ります。

☆与えられた導き

  • 神にゆだね、確信に生きることを神に告白する
祈り

天の父なる神さま、私はイエスに倣う歩みを心がけてきました。そして今老いの中にあり、平安のうちに死ぬことができることを願っています。その答えは、死にあっても主に倣うことであり、「わたしの霊をあなたにゆだねます」と祈ればよいと知りました。
また信仰の確信は、与えられるものではなく、神の約束の言葉に立つことによる確信と教えられました。確信を求めるのは、私の悪い癖です。この癖を捨てます。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。この言葉にあるように、御言葉に示される約束に立ちます。神さま、支えて下さい。

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