ローマ 8章14節 神の子とされた喜び、確信

2024年8月29日

(内容)

  • 聖霊に導かれる人は神の子です。神の子とされることは恵みです。この恵みに答えて、聖霊に導かれる人は、神の戒めを守ることができるようになります。このことによって神の子とされたことを確信できます。

(黙想)

  • 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。聖霊の導きを考えるときロマ書8章4節の言葉に目を留めることが大切である。

ローマ 8:4
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

  • パウロは3章で信仰によって義とされると書いた。これは、神がイエス・キリストを信じる者たちの罪を赦し、彼らをご自身との交わりの相手と認めることを意味する。義となっていない者を義と認めるのである。理屈に合わない。
  • でも神は、聖霊をキリスト者に与え、彼らが聖霊に従って歩むことによって律法の要求を満たし、実質的に義なる者になっていくようにされたのである。
  • この4節はとても大事だ。神の霊によって導かれる者とは、霊に従って律法を満たすものである。律法の要求を満たすのだから、その人は神の子と呼ばれるにふさわしいと言える。
  • ではどのようにしてキリスト者は、律法の要求を満たすのか。キリスト者の内に聖霊が宿っている。そのことは11節に「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている」とパウロは書く。神の霊、つまり聖霊はキリスト者の内に住んでおられる。
  • ではどのようにして、キリスト者は律法の要求を満たすのだろうか。
  • まず聖霊がキリスト者を導くことを信じることが大切である。次に聖霊はキリスト者の意思を無視して強引にキリスト者を導くことはしないと考える。それゆえ、聖霊の導きを受けたいなら、神の御心に従って生きる姿勢を明確にしなければならない。神の御心に従って歩みたいので、聖霊の導き、助けを求めるのである。
  • その時忘れてはならないので、肉に従って歩む傾向が、キリスト者の内にあることである。キリスト者が体を持つ存在である限り、肉に従って歩む傾向はなくならない。
  • 霊に従う歩みと肉に従う歩みは対立する。キリスト者は恵みの支配下にいるので、肉に従う歩みを乗り越え、律法を満たすことができる。

ガラテヤ 5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

  • もし自分が霊に従って律法を満たす歩みをしているなら、自分が神の子とされていることを信じていい。
  • 洗礼を受けてキリストに結ばれたキリスト者は、神の子とされた。これは恵みである。この恵みに答えて歩む、それがキリスト者。神の子とされたことを信じ、神の子として歩む。神の子らしく歩めたら、神の子とされたのだと確信することができる。神の子とされたことは恵みである。だからこの恵みに応答して歩むのである。神の子として歩む。そして神の恵みに感謝するのである。
  • 神の子とされたことを感謝し、キリスト者は自分の救いを確信するのである。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <聖霊>キリスト者を導く方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>聖霊の導きを求めて歩む。
  • <勧め>神の御心に生きることを心から願い、御霊の導きを求める。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も聖書を読み思いめぐらすことができ感謝します。あなたはキリストを信じる私たちのうちに聖霊を住まわせ、キリスト者が御霊によって導かれる歩みをさせてくださいます。そしてキリスト者を神の子として生かしてくださいます。感謝します。 
  • 天の父よ、私たちは洗礼を受け、神の子とされました。私たちが神の子とされるのは恵みです。それゆえ、この恵みに答えて歩んでいきます。しかし、自分が罪を犯す現実を見て、自分は神の子と呼ばれるにふさわしくないと考える人もいます。
  • 福音は罪の赦しであるという福音理解があります。罪を犯しても赦しを受けることができると考えるのです。神の子としてふさわしい歩みをすることは、無理と最初から考えてしまう傾向があります。このような福音の狭い理解を何とか変えたいとの思いがあります。
  • これは私の伝道者としての生涯のテーマでもありました。今なお課題です。私の終生の祈りの課題です。
  • 今日は、神の子とされたことを感謝し、「主に罪を赦され」で主の救いを賛美します。
☆与えられた導き
  • 「主に罪を赦され」による賛美する。

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