2024年9月3日
(内容)
- 二人の盲人が「私たちを憐れんでください」とイエスに告げ、「目を見えるようにしてください」と願った。イエスは憐れみ深い方であり、彼らの願いをかなえられた。主の憐れみにすがることは大切なことだ。
(黙想)
- 二人の盲人が「私たちを憐れんでください」と言いながらイエスについて来たとある。イエスの後ろから「憐れんでください」と何度も何度もイエスに言いながらついて言った。目を見えるようにしてほしいのだ。
- イエスが家に入ると、盲人たちも家に入り、イエスのそばに行った。するとイエスは、「私にできると信じるのか」と問う。盲人たちは、「はい」と答えた。イエスは自分たちの目を見えるようにできると信じていたのである。するとイエスは「あなたの信じたとおりになるように」と言われた。そして見えるようになった。
- イエスはこのことを誰にも話すなと二人に命じましたが、二人は大いに広めたとある。イエスはなぜ、このことを話すなと言われたのか、理由は書かれていない。
- ここで注目したいと思うのは、「私たちを憐れんでください」と盲人たちがイエスに言ったことである。目が見えない私たちのことをかわいそうな者と思い、助けてくださいと言ったのである。
- この「憐れんでください」という言葉を私たちはあまり口にしない。それは、自分がかわいそうな存在、気の毒な存在、惨めな存在と認めたくないからである。実際にそのような存在と認めていないからである。
- イエスは二人の盲人の目を見えるようにした。盲人にとって目が見えるようになったことは恵みである。盲人たちはイエスから恵みを受け取った。
- 私たちは自分は気の毒な存在ではないし、惨めな存在ではないと考えている。自分の力で何とか生きているし、憐れまれるような人間ではないと考える。そこにはプライドがある。
- 自分がキリスト者であることを考えたらどうなるのだろうか。イエスは教えた「憐れみ深い人は幸いである」。私たちは他者に対して憐れみ深い者なのか。他者に対して憐れみ深くなれない自分は、神の憐れみを必要としているのではないか。
- イエスは二人の盲人を憐れんだ。そして目を見えるようにした。イエスは憐れみ深い方である。私はイエスの憐れみを必要とする者なのか。そうでないのか。憐れみを受けるとは、恵みを受けることである。
- 信仰に生きるとは、自分が神の憐れみを必要としていること、神の恵みを必要としていることを認めることではないか。憐れみ深い人になるよう、自分が努力してなれるだろうか。答えは「なれない」。憐れみ深い人になることを願わない自分は、神の憐れみを必要としているのではないか。神の恵みによって憐れみ深い人にしていただける。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは憐れみ深い方であり、
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスに憐れんでくださいと言って憐れみを求める。憐れみ深い人になるために、聖なる生活を営むために、私たちは主の憐れみを必要としている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、二人の盲人は目が見えるようになることを願い、主イエスに憐れみを求めました。信仰生活を送る上で、自分のする努力とあなたの恵みを受けることの違いを理解し、恵みは求め、自分がする努力はすることができることが大切だと思います。私自身は、まず自分の努力を考え、憐れみを求め、恵みを求めることの少なかったことを思います。
- 年齢を重ね、ゆだねる信仰の必要を感じます。死ぬということは、死後の自分をあなたにゆだねることです。平安の内にあなたにゆだねることができる者になりたいです。
- 聖書の言葉や、讃美歌の歌詞から、ゆだねていいんだよという励ましを受けます。主イエスよ、私を憐れみ、神にゆだねる心を与えてください。
- 私の人生のこれまでの歩みを振り返り、あなたの導きを確認したいと思いました。そしてあなたが共にいてくださり、導いてくださったことを確認したいと思いました。こうしてあなたの導きを確認できれば、将来を、死を越えてあなたの導きにゆだねることができるのではないかと思います。
☆与えられた導き
- 人生を振り返り、神の導きを確認する。