2025年1月14日
(内容)
- キリストの愛から、私たちを引き離すものはない。
(黙想)
- この段落には、神の愛、キリストの愛が語られる。そして神の愛、キリストの愛から私たちを引き離すものはないと語られる。
- 神の愛はどのように示されたのか。
3:25
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
- 神はキリストを立て、罪を償う供え物とした。ここに神の愛がある。
5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。8:32
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
- 神の愛は、神が御子を惜しまず死に渡されたことに示される。御子を罪のための贖いとされたことに神の愛は示される。
- 神は私たちに対する愛を示された。神がキリストを世に送り、キリストを罪の贖いの供え物としたことにおいて、神は愛を示されたのである。御子を惜しまない神の愛である。私たちを救うために御子を惜しまない。御子を惜しまないほどに、私たちを救おうとするところに私たちに対する神の愛が示された。
8:38~39
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
- キリスト・イエスによって示された神の愛とはどういうことか。神が御子を惜しまず、つい身の贖いの供え物としたことにおいて、神は私たちに対する愛を示された。そしてこの神の愛から私たちを引き離すものはない。
- さらにパウロは、キリストの愛から私たちを引き離すものはないという。
8:35
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
- ではキリストの愛はどのように示されたのか。
5:6
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
- キリストが私たちのために死んでくださった、そこにキリストの愛がある。キリストは私たちを救うために自分の命を犠牲にすることよしとされた。そこにキリストに私たちに対する愛が示されている。御子キリストを罪の贖いとしてお立てになった神の御心に、御子は従順に従ったのである。御子は神と心をひとつにしていた。ヨハネ福音書には、キリストは父なる神の御心を行うために自分は来たと語っている。
- 人間を救うために御子を惜しまない神の愛、人間を救うためにご自身のいのちを犠牲にする御子キリストの愛。言葉で表現すれば簡単に表現できる。しかしそれがどれほどの愛であるのか、簡単には説明できない。人間には想像できない大きく深く、広く、高い、神の愛、キリストの愛である。
- 富める青年は、永遠の命を得るためにどうしたら良いかと主イエスに尋ねた。主イエスは彼の持つ財産を貧しい人に施すように勧めた。でも彼は自分の財産を惜しんだ。永遠の命を求めながらも富を惜しんだ。
- キリストの愛について、34節も忘れてはならない。
8:34
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
- キリストは私たちのために執り成しをしてくださる。
ヨハネ一 2:1
わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
- キリストは私たちのために執り成してくださるとここにも書かれている。私たちの罪の贖いのために死んで下さり、天に上げられてからは、信仰者として生きる私たちが罪を犯した時、執り成してくださる。
- 私たちはキリストではないのに、なぜ、キリストの愛から私たちを引き離すものはないと断言できるのか。患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣。これらに直面する時、キリスト者は神を恨みたくなる。なぜ私はこんな目に遭うのかと。しかしパウロは、実際にこれらの直面しつつ宣教のわざを従事したし、苦難を誇るとさえ語る。パウロはキリストの愛から引き離されていないと確信している。
- 人は、自分の状況が思わしくないと、神の愛から話されていると感じる。36節の詩編44:23の言葉は、神の姿が見えなくなっている詩人の言葉である。この詩編の引用には、どのような意味があるのか。この詩篇の前半は、神が共にいてくださることを感謝している。しかし後半は、神の姿が見えなくなり、苦しみに直面した状況に詩人は置かれ、詩編の最後では、神に助けを求めて終わっている。それは神への信頼に立っていることを示すのか。神に見捨てられているように見えても、なお神の愛を信じて助けを求めていると言うことか。
- 「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」。キリストがご自身を犠牲にして私たちに愛を示して下さった以上、私たちへのキリストの愛は絶対である。問題は、苦難に直面して、神の愛、キリストの愛を感じられなくなる私たちにある。私たちの思いの底には、神に愛されているなら、苦難に遭うことはないとも思いがある。だから神の愛を疑い、自分から神の愛から離れていくことが起きかねない。
- 終末を迎え、神の国に迎えられた時、私たちは、神の愛、キリストの愛をはっきりを知ることになる。この世の現実の生活においては、神の愛、キリストの愛を信じて生きることが大切である。神の御国に迎えられることにおいて、神の愛をはっきりと知り、神を崇めることになろう。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>御子の愛から、私たちを引き離すものは何もない。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>キリストの贖いの死によりもたらされる救いとはどのようなものかをはっきり知ることが大切だ。私たちを御子の似姿に導く救いであることを知ることが大切。苦難の中にあって私たちは訓練を受け、キリストの似姿へと変えられていく。
- <約束>キリストの愛から、私たちが引き離されることはない。キリストが私たちを愛することをやめることはない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。キリストの愛から私たちを引き離すものはないと書かれていました。35節には、引き離す可能性のあるものとして
- 死に言及されてはいません。38節では、死も神の愛から私達を引き離すことはないと書かれています。
- 老いて自分の死の近さを思います。死んだらどうなるのかは、わかりませんから、不安になりますが、死んでも神の愛から引き離されることはないと信じる信仰に立ちたいと思います。私たちのために執り成してくださる主イエスに祈りたいと思います。信仰に固く立つことができるように導いてください、と。
☆与えられた導き
- 主イエスに神の愛から引き離されることはないと信じる信仰に立てるように導きを祈る。