マタイ福音書12章1~8節 憐れみの大切さ

2025年1月9日

(内容)

  • 安息日にイエスと弟子たちは麦畑を通っていた。そして弟子たちは麦の穂を摘んで食べた。ファリサイ派の人たちはこれを見て律法違反と非難した。

(黙想)

  • イエスが語ったダビデのことはサムエル記上21章に書かれている。サウロ王が自分の地位をダビデが脅かしていると考え、ダビデを殺そうとした。ダビデは家来と共にサウロから逃げていた。そして祭司アヒメレクの所に行った時の出来事である。
  • イエスが語った言葉がそのまま聖書に書かれているかどうかは分からない。安息日に仕事をしてはならないとの十戒の言葉が問題にされている。麦の穂を摘むのは、仕事とみなされ、イエスと弟子たちは、十戒に違反したというのである。
  • ダビデは、祭司のところで、祭司以外は食べてはならない供えのパンを食べたことをイエスは語る。さらに安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならないとイエスは語る。
  • 麦の穂を摘んで食べたことが正当であることをイエスは語っているのであるが、わかりにくい。7節の言葉は大切である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。
  • サムエル記上15章22節には次の言葉がある。

15:22
サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。

  • ホセア書には次の言葉がある。

6:6
わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。

  • これらの聖句はイエスの言葉と似た主旨である。要するに神の戒めを守るのは正しいかも知れないが、他者への愛を忘れ、自分の正しさを主張するのは間違いであるとイエスは語る。ファリサイ派の人たちは、自分たちの正しさのみを追求する。それは信仰者の行為かも知れないが、大切な憐れみを忘れた行為であり、イエスから見れば彼らは偽善者である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>いけにえよりも憐れみを求める。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>自分の正しさを主張することより、他者への憐れみが大切である。他者の憐れみを無視して自分の正しさを主張することの間違いを知るべきである。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。主イエスの言葉聞き、あらためて思います。現代は自分の正しさを主張し、戦争を行い、他者を憐れむどころか、他者を敵と見なし、その命を奪っても平然としている権力者がいる時代です。彼らが主張する正しさは、あなたの教えに基づくものでもなく、自己本位なものです。
  • 私が生きているこの世界は、混迷に満ちた世界です。主イエスが私たちを罪から解放するために、この世に来て下さり、いのちを犠牲にしたことなど、全く無視しているこの世界です。主イエスが救い主としてこの世に来て下さったことの意義をあらためて知る者です。
  •  この事態を傍観者的に見るのではなく、まず自分の生活の中で、憐れみ深く生きることができるように導いてください。
  • 今日は妻が咳が出て風邪がぶり返したかもしれません。昼食は私が作ることにしています。何かして欲しいことがあるか、聞いてみたいと思います。それにしても御子による救い、これがいかに真理であるかと思います。神よ、いよいよ、福音を信じる者としてくださるように導いてください。
☆与えられた導き
  • 妻に「何かして欲しいことがあるか」聞いてみる。

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