2018年5月18日
(内容)
- ともしびに関する教えと隠れているものに関する格言が語られ、どう聞くべきかに注意しなさいと教えられます。
(黙想)
- この二つの格言は、神の言葉を聞くことに関する教えの中に組み込まれています。神の言葉を聞くという文脈の中でこの格言を理解することが大切となります。
- ともしびを灯すことの格言はどのような意味になるのでしょうか。前の段落は種を蒔く人のたとえの解釈で、神の言葉を蒔く人が登場しました。ともしびを灯す人は、神の言葉の種を蒔く人と同一です。
- ともしびは燭台の上に置いて部屋を明るくするために用いられます。それでは神の言葉は何のために蒔かれるのでしょうか。それは人の心を明るくするためです。人に知恵を与え、希望を与え、慰めを与え、導きを与え、人の歩みを前進させるものです。神の言葉は何のために与えられるのか、自分で理解することが大切となります。
- 次は隠れているものに関する格言。これは聞いた神の言葉の意味がすぐには分からなくても、明らかになるとの教えではないかと思います。今回この二つの格言を読み、どう解釈していいか分かりませんでした。しかし二日ほど過ぎて意味が分かったように思いました。意味が分からないといってあきらめるのではなく、聖書の説明書に飛びつくのでもなく、まずは祈り、聖霊の導きを求めて聖書の言葉を思いめぐらす中で、言葉の意味がひらかれていきます。
- 聞き方に注意しなさいとあります。これはこの段落の前後の段落を読めば分かります。つまり神の言葉は聞いたらこれに従うことが大切だということです。聞いても従わなければ、その聞くことは空しい行為となります。
- しかしどのようにして聞き従うのか、その方法については教会ではあまり教えられていません。聖書は日本語で書かれているので読めば理解できるし、信徒は大人なのだから、「聞き従いなさい」と教えれば、それで十分と教える教会の指導者が多いのではないかと思います。あるいは教えることはしても「従う」ことをおろそかにしている指導者もいるかもしれません。
- 料理にはレシピがあり、何かを作りたいときは、材料に何をどれくらい用意するのかが明記され、どのような手順で料理をしていくのかが説明されています。レシピに従えば初心者でも料理をつくることができます。しかし洗礼を受けた人はその翌日から神の言葉に聞き従うことができるようになるのだろうか。どのような指導がなされているのだろうか。僕は何の指導も受けなかった。
- 聖書を神の言葉としてこれに聞き従うことはなかなか実現しない課題なのではないかと考えるようになりました。たしかに聖書の教えを弁えて生きることは目指されてきたし、これからも目指されていくと思います。でも聖書の教えを知っていることと、それを実行して生きることは同じではありません。聖書の教えに聞き従う人は周囲の人に感化力を及ぼすのではないでしょうか。そういう人が少ない。そこに教会の伝道力の弱さもあるのではないか・・・・。牧師としての課題の大きさに目がくらんできます。そして僕はもう引退している!
ここまで。