2020年10月28日
(内容)
- 偶像に備えられた肉を食べることについて、コリント教会からパウロに質問が来た。パウロは、まず偶像なる神は存在しないことを伝える。
(黙想)
- 1節。コリント教会の中には、「我々は皆、知識を持っている」と知識を誇る人たちがいた。偶像に備えられた肉を食べるか否かについて、知識に基づいて対処の仕方を知っているという人たちがいた。パウロは彼らの態度に愛を見ることができなかった。自分の知識を誇り、その知識に従っているだけで、愛はない。行動自体は正しいかもしれないが、彼らの態度が他の人たちにどのような影響を与えるのかについては関心がない。それでパウロは、知識は人を誇らせるが、愛は造り上げると語る。
- 2節。知識を誇る人たちに対して、その人たちは知るべきことをまだ知らないのだと語り、自分の知識を誇ることの愚かさについて語る。パウロは、偶像に備えられたものを食べることについては、単に知識からだけ判断することは良くないと考えている。
- 3節。神を愛する人は神に知られている。どういうことか。なぜこの文がここにあるのか。
- 4節~6節。偶像に備えられた肉を食べることについてまず、偶像なる神は存在しないことを告げる。キリスト者の信仰は唯一神信仰であり、自分たちが信じる神以外に神は存在しないという立場。キリスト者でない人たちが神と崇めているものは、神ではない。たといそれらが像として目に見える形で人々から拝まれていたとしても、それは神ではない。
- 6節。私達が信じる唯一の神は、父なる神であり、万物はこの神から出てこの神へ帰る。また私たちには唯一の主イエス・キリストがおり、万物はこの主によって存在しており、私たちもこの主によって存在している。
- パウロは、答えを出す前に、自分たちが何者であるかを明らかにする。あなたがたは唯一の父なる神を信じており、唯一の主イエス・キリストを信じている。信じるだけでなく、この神、この主によって、自分が存在していると教える。
- パウロは、問題を知識だけで解決しようとはしない。自分が何者であるのか、根本に帰って考える。
- 私は神の意志により存在し、主イエス・キリストの贖いにより、存在し、生かされているとの信仰がここで言い表されている。この根本に立ち返り直面する問題を考える。
- 日本人の常識としては自分は偶然誕生したとの理解に立つ。自分は偶然の存在である。聖書によれば、自分の存在は偶然ではなく、神の御意志がある。さらには、主イエス・キリストにより救われて今がある。この自己理解を徹底するとどうなるのか。自分の存在に先立ち神がおられる。それ故、神の言葉に立って考えることが自己理解の徹底となる。
- パウロは今、偶像に備えられた肉を食べるか否か、という問題に直面している。自分たちは唯一の神、父なる神、唯一の主イエス・キリストを信じていることを確認し、この問題の答えを出そうとしている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か。
- <御父>唯一の父なる神である。すべてのものは、この神から出て、この神に戻る。
- <御子>唯一の主。御子によって、私たちは存在している。
☆神が私たちに求める生き方。
- <教え>私たちは、この神に自分の存在を負っている。私たちの存在は、この神の御意志であり、私たちは偶然に存在しているわけではない。キリスト者として、イエス・キリストは唯一の主であり、私たちはこの主によって存在している。救われた者として、キリスト者として存在している。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。パウロは偶像に備えれた肉を食べることについての答えを出すためにキリスト者の根本に立ち返ります。キリスト者は唯一の神、父なる神を信じるものであり、偶像なる神はいないことを語ります。
- 私たちの存在は偶然の存在ではなく、あなたの御意志により、私は誕生し、主イエス・キリストにより救われ、今キリスト者として存在しています。偶像にささげられた肉を食べることは如何、という問題は、今の私の問題ではありません。
- 今の私は答えを出すべき問題には直面していません。ただ目の手術という事態に直面していることは確かです。手術後、辛い状態を忍耐する必要のあることがわかっています。基本的に神さまにゆだねるつもりであり、思い煩うことはしないし、思い煩っていません。その時に神さまにゆだねて過ごすしかないと思っています。ただそのように考えることには、ひそかな強がりがあるかもしれません。
- 予想されるつらい状態を少しでも楽に過ごせるように、神さまに祈ることは大切だと思いました。手術の日まで、術後の状態を少しでも楽に過ごせるように、平安に過ごすことができるように、あなたに祈り続けることとします。
☆与えられた導き
- 手術後、楽に平安に過ごせるように祈り続ける。