2021年9月28日
(内容)
- イエスが語られた種まきのたとえである。イエスは最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と命じられた。
(黙想)
- イエスはたとえを語られた。聞く耳のある人とない人の存在が告げられる。イエスは聞く耳のある人に「聞きなさい」と語る。キリストの福音もまた、聞く耳のある人に向けられている。人は自分の関心があることには耳を傾ける。関心のないことには耳を背ける。何に関心を持つか、それは人それぞれである。
- イエスは種まきのたとえを語られた。これは何を意味するたとえなのか、たとえを通して何を言いたいのか。さらに聞いてみたいと思うかどうか。自分が大きな分岐点に立っていることを人は案外気づかない。
- ここでは自分に投げかけられたことに対して心を開いて受けとめようとするか否かが問われている。つまりイエスは語った。それをどう聞くか。さらに聞きたいと思うのか。それとも耳を閉ざすか。
- 神が示された導きを、導きと受けとめるのか、それとも無関心にやり過ごしてしまうのか。自分はどのような生き方をしてきたのか、立ち止まって考えるように導いている。
- 牧師としての自分の歩みを考えるとき、色々な集会への誘いを与えられたとき、受け入れ参加してきた。それらを神の導きと受けとめ、その導きに従い、今日の自分があると思う。その意味では、聞く耳のある者ではないかと思う。
- 伝道礼拝に誘われ、やがて教会の礼拝に連なり、洗礼を受けた。さらには牧師へと導かれた。自分はこうだと決めつけず、自分を絶対化せず、心を開いて歩んできたと思う。それはよかったと思う。そして今、再び「聞く耳のある者は聞きなさい」とのイエスの声を聞く。僕は今、何を聞いているのか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>聞く耳を持つこと。今何を聞いているのか。それをさらに聞こうと耳を開くか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は聞く耳を持つことを教えられました。そこで今私は何を聞いているのか、何を聞きつつあるのか、何に対して耳を閉ざそうとしているのか、と考えます。
- 日曜日、礼拝後の報告で教会員の消息が語られました。亡くなるのはそう遠くないと感じました。祈りが求められました。あらためて死を前にした人のために祈る時、何を祈ったらよいのかと思います。魂の平安を祈ればよい、そう思っていました。しかし聞く耳のある者として祈るとしたら、どうなのでしょうか。
- 福音を聞くことに喜びを覚える者として祈るなら、どう祈ったらよいのか、考えます。もし自分が危篤の状態にあったら、どのように祈ってもらえたらうれしいのかと思います。もし自分だったら、死を前にしているのだから、言い換えると御国に迎えられる前なので、御国への期待、御国に迎えられる喜びで心が満たされたいと思いました。
- 天の父なる神さま、また読み続けている本がありますが、「読んで、読んで」と言っているような気がします。他にやることがあって読書を中断していましたが、やはり読みたいと思います。すべきことが色々ありますが、今日、少なくとも一時間は、この本を読むために遣います。
☆与えられた導き
- 祈りと読書
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祈り
- 天の父なる神さま、教会に連なる一人の兄弟が死を前にしています。まもなくあなたのもとに召されます。兄弟の魂の平安を祈ります。おだやかに終わりの時を迎えることができますように。しかし主よ、兄弟はあなたを信じ、イエス・キリストを信じました。そして今、あなたのもとに召されます。あなたの御国に召されます。主イエスにまみえます。そして主と共に永遠を過ごします。これはすべてのことにまさる喜びです。この喜びが待っています。
- 兄弟の心に、この喜びを待ち望み、期待する思いを満たしてください。そして喜びの中に目覚めることができるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。