2022年4月15日
(内容)
- イエスが十字架で亡くなった直後、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた。
(黙想)
- 考えてみると、イエスが亡くなった直後神殿の垂れ幕が裂けたのをだれが見たのか、不思議である。しかも神殿を管理しているのは祭司たちであり、垂れ幕が裂けるようなことは隠し通すのではないかと思う。それゆえ、垂れ幕が裂けたという表現は、文字通りのことではなく比喩と理解するのがよいと思う。
- では何の比喩か。神殿には聖所があり、そこは祭司しか入ることができない。さらに聖所は、垂れ幕によって二つに分けられる。奥は至聖所と呼ばれる。聖所に入ると前方に垂れ幕があり、その向こうが至聖所である。そして至聖所は、大祭司が年に一度だけ入ることを許されている。至聖所とは、最も聖なる所、つまり神が臨在しておられる場所との意味である。
- 垂れ幕が裂けたことは、至聖所を隔てる幕がなくなったことを意味し、だれもが至聖所に近づくことができることを意味する。つまりだれもが神に近づくことができることを意味する。イエス・キリストによって、それが可能となった。
- 旧約聖書を読むと、人々は神に祈っている。人々は神に近づいて神に祈っているように思える。しかしイエス・キリストによって神に近づくことができるようになったということは、神に祈ることと神に近づくことは別であることを教えているように思える。何が違うのか。
ヘブル 10:20
イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。ヘブル10:1
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。ヘブル7:25
それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。ヘブル 4:16
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
- 「神に近づく」という表現のある聖句を読んでみると、神に近づくことと神に祈ることは違うことがわかる。神に近づくことは、救いと関わるように思える。救いを自分のものにするという意味合いがあるように思う。祈りは自分の願いを神に告げることであり、必ずしも救いに関わることとは限らない。神に近づいてこそ、救いは達成される。ヘブル書は、律法は神の御心を示すが神の御心を行う力を与えてくれないと語る。しかしイエスは御心を行う力を与える。その力を得るために神に近づくという考えがあるように思う。この力は自動的に与えられるわけではない。求めて与えられるのである。
- 信仰に生きるとは、神を求めることであると思わされる。信仰とは神との交わりに生きること。神さまは、私たちを交わりの相手としてふさわしい者へと引き上げてくださる。イエス・キリストの十字架の死は、罪からの解放を視野に入れていることを思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>神に近づく道を開いてくださった。罪に勝利する道を開いてくださった。罪から救われて生きる道を開いてくださった。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様があなたに近づく道を開いてくださったことを覚え感謝します。ヘブル書には「新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」とあります。
- 律法は、それを守る力を私たちに与えませんでした。律法は人間を罪に定めるだけでした。しかしイエス様により救いの道がひらかれました。聖霊の助けにより、私たちは律法を満たすことができるようになりました。なんと素晴らしいことでしょうか。そしてこれを知らない方のなんと多いことでしょうか。
- 天の父よ、今のわたしができることは、罪からの解放の福音を多くの人に伝えることです。それをブログに書く予定でいます。今日のディボーションは、神に近づくことが罪からの解放にとって鍵であることを教えてくれました。感謝します。
- 今日教えられたことをブログに書くこととします。
☆与えられた導き
- 今日教えられたことを罪からの解放の福音と題してブログに書くこととする。