2022年5月26日
(内容)
- 三日もイエスと一緒にいた群衆をイエスは解散させようとするが、群衆は空腹でイエスは彼らをかわいそうに思い、食べ物を与えた。
(黙想)
- ここで疑問に思うのは、群衆は三日もイエスと一緒にいたとある。群衆は寝泊まり、食事はどうしていたのか。4千人の人がいたという。イエスについて行くという思いを持った群衆は多少は食糧を持っていたかも知れない。また野宿はしたのかも知れない。そのあたりのことはよく分からない。
- 群衆には、何か求める気持ちがあり、イエスについて行ったと思われる。もしいやしを求め、病人をイエスのもとに連れて行き、いやしを得たなら、その人は家に帰るだろう。ここに登場する群衆は何か心の渇きを覚えていたと言える。6章30節以下の五千人の給食の物語では、イエスが群衆を見たとき、群衆は飼い主のいない羊のように見えたとある。そんな彼らをイエスは深く憐れみ、教えられたとある。
- 今書店に行けば、この世に生きる人間のさまざまなニーズ(必要性)に答える書籍が並んでいる。書店には、ありとあらゆる教えが書籍となってあふれている。いかにうまく生きて行くか、手引きとなる本は沢山出版されている。人々は物質的な面では、それなりに満たされた生活をしている。しかし霊的な渇きに人々は気づいているのか気づかないのか、霊的なものを人々は求めていないようにみえる。
- 当時の人たちの多くは貧しかったのではないか。貧しいゆえに、生きる意味を知りたかったし、生きることの喜びを求めていたのではないか。それでイエスの後についていったのではないか。
- イエスのもとに来た群衆は霊的な渇きを求めていたと思われる。群衆はイエスと一緒に三日も過ごしていた。そろそろ家に帰るときである。イエスは群衆を解散させようとする。でも彼らは空腹であり、空腹のまま帰らせたら、途中で疲れ切ってしまうだろうとイエスは彼らのことを思いやる。
- 6章の五千人の給食では、イエスは弟子たちに「あなたがたが群衆に食べ物を与えなさい」と命じた。弟子たちはもちろん戸惑った。そんな大勢の人に配る食物はなかったからである。この箇所では、イエスは率先して食べ物を与えようとする。「パンは幾つあるか」とイエスは確認し、7つのパンでもって群衆の空腹を満たされた。
- イエスは群衆の霊的渇きも肉体の渇きも癒やされた。主イエスはただ教え、奇跡を行う方ではない。何よりも群衆を思っている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>群衆を思いやる方
- <御子>七つのパン、小さな魚で4千人ほどの群衆の空腹を満たすことのできる方
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>群衆は霊的渇きをもってイエスについて行った。これはイエスに霊的渇きのいやしを求めることの模範である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。家に帰らず、三日も主イエスについて行った群衆の姿に驚きました。おそらく霊的な渇きがあったのだと思います。今日の箇所で主イエスは、彼らの空腹に注目し、彼らにパンを与えました。主イエスは群衆を思いやり、肉の糧をお与えになりました。
- 主イエスは、私たちのことを深く心にかけてくださる方であると教えられました。あらためて、主イエスは私のことを心にかけてくださるともっと信じたいと思いました。そしてその主イエスに私も呼びかけていきたいと思いました。特に自分としては大切に、そして必死に祈っている祈りがありますが、これらの祈りを祈る時、「主よ」と呼びかけ、祈りに耳を傾けてもらいたいと思いました。
☆与えられた導き
- 祈りにおいて、主よと呼びかける