2023年6月29日
(内容)
- キリストと一体になったら、キリストの死と復活に私たちはあやかる。
(黙想)
口語訳聖書
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。新改訳聖書
6:5 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。新改訳第3版
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
- 5節は、3~4節で語られたことをもう一度繰り返している。要点は、洗礼を受けた者は死んで、新しく生きるということである。現実的には、洗礼を受けても何も変わったようには思えない。洗礼を受けても自分の心が、変化したようには思えない。洗礼を受けたら自動的に、その心が変えられるわけではない。
- しかし霊的な事実として、洗礼を受けたらその人はキリストに結ばれ、キリストと共に死んだのである。そしてキリストが復活されたように、洗礼を受けた人も新しい命に生きるようになったのである。このことをどう信じるか。
- 我々は神を信じる。といっても神を見たから信じたのではない。神がおられるという証拠をつかんだから信じたのでもない。神がおられることを確かめることができたから信じたわけではない。根拠も、証拠もないが神を信じたのである。礼拝で説教を聞き、神を信じるように導かれたということができる。恵みの賜物として信仰を与えられたということもできる。
- 洗礼を受けてキリストに結ばれたこと、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きることも、神を信じることと同じである。根拠も証拠もない。しかし聖書がそのように語るから、信じるのである。また信じるように導かれる。自分の理性で信じがたいから信じないという態度を取ってはならない。信じられないなら、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きると「考える」ことにしたらよい。
- この箇所は罪からの救いを考える時にとても大切な箇所である。
- 洗礼により、私たちはキリストと結合する。キリストに結ばれる。3節は、キリストに向かって、あるいはキリストの中に、洗礼を受けると書かれており、さらにキリストの死に向かって、あるいはキリストの死の中に洗礼を受けると書かれている。そして4節ではキリストと共に葬られ、とキリストの死と洗礼を受けた者が結ばれていることが示される。そしてキリストが死者の中から復活させられたように、受洗者も新しい命に生きるようにされたのである。
- 5節は、3~4節の繰り返しになるが、私たちはキリストに結ばれ、その死と復活を共にすると語られる。キリストと結ばれるのは、洗礼を受けた結果であり、これは与えられるものである。
- キリスト者はキリストに結ばれているということ、具体的に黙想することが大切だ。
- まず手始めに、讃美歌で、キリストが共にいてくださる、身近にいてくださることを歌っている曲を見つけよう。キリストが共にいてくださることは、多くのクリスチャンが共感すると思う。信仰的にはそこから一歩踏み込んで、キリストは私たちにつながってくださる。ぶどうの木のたとえのように。このたとえは、キリストと死と生を共にするという考えはない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>私たちと結びついてくださる方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>まず、自分がキリストに結びつけられていることを信じる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 信仰者はキリストに結びつけられているということは、本当に大切な教理です。宗教改革時代に生み出された信仰問答でも、このことは明確には語られていません。その意味では、現代がまさに必要としている教理と言えます。キリストとの結合、キリストとの結びつきについて、これから黙想を深めたいと思います。そして自分自身がキリストとの結合に深く生きることを目指します。導いてください。
☆与えられた導き
- キリストとの結合について思いめぐらす。