ローマ 6章14節 恵みに下にいるキリスト者

2023年9月27日

(内容)

  • 罪はもはやキリスト者を支配することがなく、キリスト者は律法の下ではなく、恵みの下にいる。

(黙想)

  • パウロは、キリスト者は律法の下ではなく、恵みの下にいると書く。これはすばらしい福音の宣言である。
  • 律法は私たちに「私を守りなさい」と命じる。しかし私たちは完全に守ることができない。律法を守れない時、律法は実行できない罪を責める。つまり私たちには罪の自覚が生じる。律法の下にいる人は、律法を守らなければならないと考え、同時に律法を守ることができないとの責めを受けるのである。
  • 3章21節以降で、パウロは人は律法の行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされると書く。私たちが義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による。
  • そもそも律法を守って神の前に義なる者となる試みは失敗に終わる。ファリサイ派や律法学者、キリスト者になる前のパウロは、自分たちは律法を守っていると理解し、神の前に義なる者であると自認していた。しかしイエスは彼らは律法を上辺だけ守っているのであり、実際には律法を守っておらず、偽善者であると彼らを批判した。
  • 私たちは信仰によって義とされる。それゆえ、神の前に義なる者となるために、律法を守らなければならないという要請から自由になる。律法は守らなければならないと考える人は律法の下にいるが、私たちは律法の下にはいない。むしろ私たちは恵みの支配下にいる。人はイエス・キリストを信じる時、救いの恵みの下に置かれる。恵みの下にいる幸いをパウロは次のように語った。

ローマ 5:15
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

  • さらには洗礼を受け、キリストに結ばれた私たちは罪から解放されている。
  • だから、パウロは、私たちの体を罪に支配させ、体の欲望に従ってはならないとの勧めをする。罪に対して抵抗するのである。さらにからだを義のための道具として献げることを勧める。
  • キリスト者は律法の下にはいない。律法を守らなければならないと考える必要はなくなった。では律法は無用になり、要らなくなったのか。私たちは律法とは関係のない者になったのか。それは違う。キリスト者として私たちは律法を守る。それは守らなければならないからという理由で守るのではない。
  • 信仰者だから神の御心を大切に考え、律法を守る。動機で言えば、「守らなければならない」ではなく、「守りたい」である。守ることを喜びとする。そして罪から解放されているから守ることができる。
  • 私たちは恵みの下にいる。恵みは義によって支配する(5:21)。義とされた者は神の恵みの下に生きる。その結果、律法を全うすることができるというのがパウロの主張である。
  • 私たちは律法の下にはいない。このことをしっかりと受けとめる必要がある。そうしないと、神の戒めを守らなければならないとの重荷を背負い、さらには守れない自分を責めたりする。この泥沼から人は抜け出ることができない。
  • キリスト者は恵みの下にいるので、罪に抵抗し、罪に勝ち、律法を全うすることができるという救いの道をパウロはこれから語る。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>律法の下にはいないことを理解し、喜ぶ。
  • <教え>恵みの支配の下にあると理解し、喜ぶ。
  • <勧め>罪に抵抗し、自分を神に献げること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。あらためて思うことは、この6章は霊的に深いことを語っていることです。言葉の意味は分かってもそれがどういう事態を語っているのか、経験しないと分かりにくいということです。
  • そして礼拝の説教でも語られることが少ないです。この箇所は、キリスト者の生き方について根本的なことを教えているので、キリスト者が理解することはとても大切です。
  • 私は牧師を引退しているので、教会で教えることはできません。私自身、さらに理解を深め、分かりやすく伝える者となりたいです。導いてください。
  • 6章15節以下を繰り返し思いめぐらしたいと思います。
☆与えられた導き
  • 6章15節以下を繰り返し読む。

 

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