ローマ 8章29~30節 キリスト者の栄光

2024年12月5日

(内容)

  • 神はあらかじめ定めた者を召し出し、義とし栄光を与えた。キリスト者には神からの栄光がある。

(黙想)

  •  パウロはキリスト者の栄光について語っている。

ローマ 3:23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

  •  「受けられなくなって」は、「欠如した」の意味。もともとあったものが欠けたというのである。

ローマ 5:2
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

  •  イエス・キリストを信じ、義とされたキリスト者は、神の栄光にあずかる希望を誇りにするという。以前欠けた栄光を回復する希望があると言う。

ローマ 8:18
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

  • パウロは、将来現される栄光について語る。キリスト者は栄光ある存在である。それが将来現されるとする。罪を犯して欠如した栄光が回復するのである。5章2節では、将来の栄光を誇りとするとある。この8章では、この栄光を思えば、現在の苦しみは足りないという。
  • そしてこの箇所では、神は栄光を与えたとある。与えた、は過去形である。神によってあらかじめ定められてキリスト者になった者たちに神は栄光を与えたという。この世に生きるキリスト者は、その体は贖われる必要がある。キリスト者の現実の姿は、御国に迎えられた時の栄光の姿とは異なる。
     18節では将来現されるはずの栄光。この箇所では「与えられた」。「すでに」と「未だに」の考えがあるのか。キリスト者はすでに栄光を与えられているが、それは完全ではなく、完全に与えられる将来、終末の時があるという意味か。
  • キリスト者は、御子に似る歩みをするのだから、すでに栄光を与えられていると言うことができるし、それは将来、全き栄光を与えられる時を待つのである。
  • 終末の時、栄光に輝くキリスト者の姿とはいかなるものなのか。それを待ち望むことは大切である。パウロはフィリピ書でこう書いている。

フィリピ 3:21
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

  • 具体的には分からない。私たちにはそれがどのようなものか、いまはわからない。でもその時が来れば分かる。それは、この世に生きている限り実現しない。生きている間には実現しないが必ず実現する約束である。アブラハムの信仰を思う。彼は信仰の父である。
  • アブラハムを信仰の父とするなら、将来現される栄光を信じて生きよう。ここに終末の事柄を信じる根拠が与えられたように思う。神の導きと感謝しよう。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御父>神はあらかじめ定めた者を召し出し、義とし栄光を与える方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>将来栄光の姿に変えられることを信じる。楽しみにする誇りとする
  • <勧め>終末を信じる根拠を与えられたことを感謝しよう。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、キリスト者には終わりの日に、栄光の姿に変えられるとの希望があることを教えられ感謝します。それ故、今、御子に似た者として歩むという目標が与えられていることを感謝します。私は御子は言葉が人となったお方であり、イエスは父なる神の従順に歩まれたので、み言葉を大切にし、み言葉に従う歩みを心がけています。
  • 天の父よ、それだと時に、言葉に集中し、人格を持つ御子イエスが見えなくなってしまうような気がします。御言葉はイエス・キリストから来ることを強く覚えたいと思いました。ファリサイ派や律法学者たちが、神の律法を守る努力をしましたが、律法の背後にあるあなたの思いを知ることはありませんでした。結果として、律法の字面を守ることになりました。福音書をディボーションする時は、主イエスの心に思いを向けることができるようにしたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
  • 福音書をディボーションする時、主イエスの心に思いを向けてディボーションできるよう祈る

この記事を書いた人