2024年12月10日
(内容)
- イエスは、多くの奇跡を行った町々が悔い改めなかったので叱った。裁きの日には、大いなる罰を受けるとされる。
(黙想)
- 11章から12章は、イエスの活動がうまく行っていないことを伝えている。11章17節で、「今の時代を何にたとえたらよいのか」とイエスは言い、「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」と歌っているのに似ているという。子供たちは笛を吹き、人々が踊ってくれることを期待していたが踊ってくれなかった」。人々が反応を示さなかったことを歌っている。
- この段落では、イエスの怒りの激しさに驚く。数多くの奇跡を行った町々で、人々は悔い改めないのである。天の国の到来のしるしである奇跡を見ても、悔い改めないのである。その頑なさに対してイエスは叱る。そして裁きの日には、大いなる裁きが望むと語った。
- 人々の無反応、無関心が語られ、裁きの日について語られる。現代でも人々は福音に関心を示さない。裁きの日の到来を信じない。教会の宣教は、信じる人と信じない人の区別をもたらす。
- このマタイ福音書は未信者が読むために書かれたものではなく、信仰者が読むためのものである。
- 僕としては、裁きの日のあることに心を留めたいと思う。終末の到来に伴う神の裁きである。終末を考えるとは、自分の死後のことを考えることになる。
- 最近の僕の思いは、終末の事柄を信じたいという思いである。確信したいという思いである。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」。望んでいる事柄、とある。自分が望むことが大切になる。終末の事柄を僕は望んでいないのか、望んでいるからこそ、確信するようになる。まず望むことが課題か。終末の事態は、神ご自身がもたらす事態である。何を望むのか。これを明確にすることが大切だ。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>裁きの日が来ることを覚える。
(神の導き)
☆祈り
- 主イエスは、裁きについて言及しました。これは終末における裁きです。私の死後に起きる事柄です。終末において、私たちは復活し、裁きを受け、神の国に迎えられると聖書は教えています。
- 終末の事柄がないかのように考える思いが心の片隅にあります。それは自分が信仰に生きることと矛盾しています。矛盾を抱えて私は生きていることになります。これを乗り越えたい、終末の事柄を本当に信じ、終わりを見て今を生きる信仰に歩みたいと私は願います。神さま、導いてください。それと同時に、終末の事柄を望むことが必要であると教えられました。聖書は終末の事柄を教えていると理解するだけではなく、望むことが大切だと知りました。
- 今日は、ウェストミンスタ信仰告白が終末の事柄についてどう教えているのか、チェックしたいと思いました。そして、終末の事柄を待ち望む信仰に生きることができるよう導いてください。
☆与えられた導き
- ウェストミンスタ信仰告白を読む。