ローマ 11章17~24節 神の慈しみ

2025年10月7日

(内容)

  • ユダヤ人がイエスを信じないで、神に見捨てられたように見える。異邦人のクリスチャンは思い上がってはならない。不信仰に陥れば、異邦人クリスチャンも神から見捨てられる。

(黙想)

  • 11章の最初で神はご自分の民を見捨てられたのかと問い、そうではないとパウロは答える。ユダヤ人はイエスを信じなかった。もはや神の民とはいえない。異邦人たちがイエスを信じた。ここには神の計画があった。異邦人クリスチャンが神に祝福されているのを見て、ユダヤ人たちが妬みをおこし、それによってユダヤ人がイエスを信じるようになるのを神は期待している。これが神の計画である。
  • 17節からの段落では、パウロはたとえを語る。オリーブ畑の管理人が、栽培されているあるオリーブの木の枝を折り取り、野生のオリーブの木の枝を接ぎ木した。
  • 折り取られた木の枝は、ユダヤ人。接ぎ木されたのは異邦人クリスチャン。折り取られた木の枝であるユダヤ人はイエスを信じなかった。イエスを信じなかったから、折り取られた。もはや神の民ではない。オリーブの木は神の民と考えることができる。野生のオリーブの木の枝、イエスを信じた異邦人クリスチャンが接ぎ木された。
  • 接ぎ木されたからといって、思い上がってはならない。自分たちが不信仰に陥るなら、折り取られる可能性がある。神の民であったユダヤ人さえ、折り取られるなら、まして野生の木の枝である異邦人栗は不信仰に陥るなら、すぐに折り取られる。
  • 神の慈しみと厳しさが語られる。異邦人キリスト者は、神の慈しみのおかげでオリーブの木に接ぎ木されている。信仰に立ち、接ぎ木されている状態を保つなら、神の慈しみは、彼らに向けられている。神の慈しみを受けて、信仰に立ち続けることができることを忘れてはならない。
  • 神は不信仰な者に対しては、ユダヤ人であろうと異邦人キリスト者であろうと厳しい態度をとる。信仰に立つ者には慈しみをもって接する。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>信仰者が不信仰に陥るとき、不信仰な者に対しては厳しい。信じる者には慈しみ深い。
☆神が求めるキリスト者の生きかた
  • <警告>神の慈しみによって信仰に立ち続けること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、聖書を読むことができ感謝です。今日はあなたの「慈しみ」に目をとめました。あなたは慈しみをもって信仰者に接してくださいます。しかし時に人は、不信仰に陥ります。不信仰に対して、あなたはきびしい方です。信じる者には慈しみ深い方です。あなたの慈しみに生きる者でありたいと願います。信仰に立ち続ける者でありたいと思います。
  • 詩編を読むと、「神の慈しみに生きる」という言葉が繰り返されていて、あらためて、「慈しみ」とは何かを確認したいと思いました。あなたは出エジプト記でご自身がいかなる方であるかを語られました。

出エジプト 34:6~7
主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」。

  • あなたが慈しみに満ちる方とはどういうことなのか、きちんと理解したいと思いました。聖書辞典、詩篇の解説書を読んで確認したいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • 「神の慈しみ」とは何か、調べる。

~~~~~~~~~~~~

  • 「神の慈しみ」とは何かという問いに対して、これだという答え方は難しいように思う。
    慈しみはヘブル語でヘセッドという。旧約聖書では訳250回出てくる。そのうちの藩部は、詩編で、「神の慈しみに生きる人」という用例が多い。
  • 慈しみをつくる基本は三つです。第一は「他者への関心」。第二は「感情の共鳴」。第三は「具体的な行動」。この三つがそろうと、慈しみは形になって相手に伝わります。(ネットから)
  • 僕の言葉で表現すると、
    神の慈しみとは、人間を一方的に大切に思い、人間の現実に理解を示し、人間にとって最善となるように導いてくださる神の愛のひとつの表現。
  • 似た表現に、神の恵み、神の憐れみ、などがある。
  • 神の恵みは、具体的に神の行為となって現れる。人間に対する神の一方的な好意を意味する。人間の予想を超える神の行為である。
  • 神の憐れみは、罪を犯す人間の悲しさに対する神の理解、その理解から生まれる神の愛の行動。

この記事を書いた人