ルカ福音書 11章45~54節 律法の専門家は不幸だ

2025年10月22日

(内容)

イエスは律法の専門家を三つの点から「あなたたちは不幸だ」と語った。

(黙想)

  • 第一の点は、律法の専門家が、人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないとある。この句は、二通りの解釈ができる。

①人に重荷を負わせながら、重荷を負うのを助けない。
②人に重荷を負わせながら、自分は重荷を負わない。

  • 負いきれない重荷とは何か。ファリサイ派の人たちや律法の専門家は、神の戒めを守るために、具体的にどうすべきなのか、具体的な例を示した。安息日に仕事をしてはならないと十戒にある。すると安息日にしてはいけないことにどのようなものがあるのか、してもかまわないことに何があるのかを細かく規定したという。神の戒めを具体的にどのように実行するのか、適用事例を具体的に教えたという。これらを学び実行することは重荷である。
  • 人々が実行するのを助けなかったのか。ファリサイ派の人たちはそのように助けるとは思えない。では自分は重荷を負わないのか。彼らは熱心に適用集を守ったと思われる。そうするとこのイエスの言葉をどう理解したらいいのかわからなくなる。
  • キリストを信じる教会でできたとき、律法を守るべきだと教える教師たちが教会に来た。信仰によって救われるとしとたちは宣べ伝えたが、律法を守ることの必要と教えた。特に割礼を受けて、神の民のしるしを身に帯びるべきだと教えた。

使徒 15:10
それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。

  • ファリサイ派、律法学者たちは、救われるためには律法の実行が必要だと重荷を負わせた。でも彼らは形式的に律法を守るだけで、神の御心に従っていたわけではない。
  • なぜ彼らは不幸なのか。それは彼らが神の教えを守っていないからである。適用集を実行しているかもしれないが、戒めに込められた神の真意を理解し、それを実行していない。行っているつもりで行っていない。それでいて、自分は守っていると主張し、それを誇りに思う。だから不幸なのだ。
  • 十分の一はささげても、神への愛と正義の実行はおろそかにしているとイエスは批判した。彼らは偽善者なのだ。だから不幸なのだ。
  • 二番目の「不幸」は47~48節。自分の先祖が殺した預言者の墓を建てているからだ。どういうことか。普通墓を建てるすれば、死者に対する尊敬の念をもって建てる。しかし、ここでは墓を建てることは、先祖の業の証人となり、それに賛成しているという。墓を建てることは預言者を殺すことにつながる行為と見なされている。預言者の墓を建てることは、預言者を軽んじることになるという理屈である。どうしてそういう理屈になるのか。わかりにくい。主旨としては、律法の専門家たちは預言者を殺した人たちにつながる者たちであることを言おうとしている。
  • 神が遣わした預言者を受け入れない、受け入れないどころか殺してしまう。神の御心に敵対している故に、不幸なのだ。神の裁きを招くから不幸なのだ。
  • 49~50節では、神の知恵が「わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する」と語る。
  • 神が遣わす者を人々は殺し、また迫害するという。そして天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。昔、殺された預言者の血に対する責任を今の時代の者たちが責任を問われるというのは、理屈としてはおかしい。昔の人の責任を今の人が負うというのは、理屈に合わない。イエスが言いたいのは、昔も今も、神が遣わした預言者や使徒を人々は殺し、また迫害するということ。神に遣わされたイエスは、十字架の死に追いやられたし、ステパノもまた、殺されている。51節も同じ。
  • 要するに、律法の専門家たちは、神の戒めを重んじているようであるが、重んじてはいない。神が遣わした者を迫害し、殺す者たちだとイエスは語る。それ故、不幸なのだ。神の救いを受け入れることができないから。
  • 第三の不幸は53節。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」。マタイ福音書にはこうある。「律法学者たちとファリサイ派の人々。あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。
  • 天の国を閉ざすとある。イエスは天の国に入るよう招く方である。イエスを信じないこと、それは自ら天の国を閉ざすことになる。また彼らの影響を受ける人に対しても、天の国を閉ざすことになる。なぜ彼らは偽善者なのか。真理を信じているように見せかけているからである。
    ルカの場合、どこに入るのか明確ではない。マタイは天の国と明確にしている。ルカはなぜ明記しなかったのか。なぜあいまいにしたのか。わからない。わかりきっているからか。
  • 知識の鍵を取り上げるとある。知識という鍵。天の国に入るための知識。その知識があれば入ることができる。知識の鍵、言い換えるとそれは信仰。それはイエスを信じること。
  • 律法の専門家は、その知識を持っていないし、人に与えることできない。天の国に入ろうとする人を入れることができない。妨げている。
  • 律法の専門家たちは、結局、神が遣わすイエス、救い主を拒む者である。なぜ不幸なのか。神が遣わすメシアを受け入れないからである。彼らは教えを守れば天の国に入ることができると教える。それは重荷を与えることである。彼らは神の遣わした預言者を殺した者につながる存在である。実際、イエスを死に追いやる。
  • 彼らは、自分たちは神の教えを守っているというプライドがある。イエスは、彼らのプライドを揺るがす。だから彼らはイエスを敵視する。私たちも、自分のプライドの故に、神の教えに逆らうことがある。神の教えを無視することがある。自分のプライドが信仰に生きることを邪魔する。自分を誇ることは神への従順を妨げる。自分を神の下に自分を置くことに抵抗を感じるのである。プライドはくせ者である。聖書は、誇る者は主を誇れと教える。
  • 53節。律法学者はファリサイ派の人たちはイエスに対して敵意を抱く。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>律法の専門家たちの偽善を暴き、不幸だと告げる。
  • <御子>律法の専門家は、預言者を殺しまた迫害した先祖につながっていると指摘する。
☆神が私たちに求める生きかた
  • <勧め>謙遜に神の教え、イエスの教えに従う。イエスをメシアと認める。
  • <警告>自分のプライドの故に神の御心に従わない現実があるかないか。あったら改めるべきである。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日もディボーションをすることができ感謝です。
  • 今日の聖書でイエスは、律法の専門家から、なぜ侮辱するのすかと言われるほどの発言をしました。イエスはなぜ、敵意を抱かせるような挑発的な発言をしたのでしょうか。その結果、憎しみを買い、やがて十字架の死を招くことになります。
  • ファリサイ派、律法学者たちとイエスとの関わり、接触について、ルカ福音書はどのように書いているかを確認してみたいと思います。
  • 私の内に、プライドの故に、あなたの教えを拒んでいることがありはしないか、自分の心を吟味してみたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • 主イエスとファリサイ派、律法学者たちとのかかわりを調べる。
  • 自分の心を吟味する。

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5:17~26 中風の人の癒やし。イエスは中風の人に「あなたの罪は赦された」と宣言する。律法学者(R)やファリサイ派の人(F)は、罪を赦すことができるのは神であり、イエスは神と冒瀆するものだと考え始める。イエスは中風の人を癒やし、罪を赦す権威のあることを示す。

5:27~32 イエスは取税人レビの家に招かれ、盛大な宴会に参加した。R
やFはイエスのことを罪人と交際していると非難した。イエスは罪人を招いて悔い改めさせるために自分は来たと語る。

6:1~5 安息日にイエスの弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんでそれを食べた。FやRは、安息日の戒めを破っているとイエスを非難する。イエスはダビデの例を引いて反論する。

6:6~11 安息日に中風の人をイエスは癒やした。FやRは安息日の戒めを破っていると非難するが、イエスは逆に彼らに問いかける。

7:36~50
Fの一人がイエスを食事に招いた。一人の女が、イエスに近づき、イエスの足を涙でぬらし、イエスの足に香油を塗った。Fはイエスが罪人が自分に触れているのを気にしていないのはおかしいと非難する。

FやRは、自分たちは神の前に正しく生きていると確信し、それを誇りに思う。イエスから見れば、とても頑なであり、彼らは神の愛を理解しようともしない。どうしようもないほど頑なである。イエスの働きの中にメシアの働きのあることを見ようとしない。イエスが彼らに対して、激しく非難してもおかしくないと思う。

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