2021年4月3日
(内容)
- イエスは十字架につけられた。そこでイエスを待っていたのは、人々のののしり、侮辱であった。イエスの受難の場面で際立つことは、イエスに対する罵り、嘲り、侮辱である。
(黙想)
- この場面において、十字架はつまずきであることが分かる。「自分を救ってみろ」「他人は救ったのに自分は救えない」との嘲りの言葉は、十字架につけられた者が救い主であるはずがないと語っている。十字架につまずいている。十字架はユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものである。
- この場面でもイエスはののしられあざけられるに任せている。ひと言も反論しようとしない。受難の場面でのイエスは何もしようとしていない。されるがままであることが印象に残る。イエスは神に打たれ続けているのである。
イザヤ
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
- 救い主を十字架で殺そうとする人間。その人間たちを救うために十字架にかけられる救い主イエス。そもそも救いとは何か。救いとは、罪がもたらすものからの救いである。つまり罪に対する神のさばきからの救いである。人はいつの日か神の前に立ち、生きている間に自分がしたことについて神の前で申し開きをするときが来るという。そしてある者は永遠の救いへ、別の者は永遠の滅びに入れられると聖書は告げる。
テサロニケ二1:8~9
1:8 主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
1:9 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。
- 「救い」という言葉は語られるが、礼拝の説教でも何から救われるのかはあまり語られていないように思える。我々も十字架につまずいているのかも知れない。「永遠の滅び」を語れば、きっと受け入れられないだろうから。罪の問題は、我々の人生に問題をもたらすことにあるが、それ以上に、死んだ後自分はどうなるのかを決定することになる。このことのゆえに罪からの救いは大切となる。十字架は人間の罪からの救いを語る。しかし人間は自分が罪からの救いを必要とする存在であるとはなかなか認めない。自分が罪を犯す者であることを知らないし、知ろうともしない。
- 僕自身、そんなに長い生涯をこれから生きるかどうか分からない者として、聖書が語る滅びについてきちんと受けとめたいと思う。そして機会があれば、滅びからの救いを語りたいと思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>御子は十字架につけられ、人々の罵り、侮辱を受けられた。でも何も反論せず、罵られるに身を任せた。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>十字架につまずかないこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、十字架上のイエス様は人々からののしられ、侮辱されました。あらためてキリストの十字架はつまずきであることを覚えました。結局聖書が告げる救いは、罪からの救いであり、これは地上の人生における私たちの歩みを幸いなものとするだけでなく、永遠をどこで生きるかに関わるものであることをあらためて思います。
- 私が現役で説教をしているとき、「永遠の滅び」ということを真剣に語ってこなかったことを思います。ためらいを覚えました。ある意味リアリティーがないからです。でもそれは、やはり十字架につまずいているのではないかと思わされました。天の父よ、お赦しください。
- それゆえ、キリストの十字架の死による救いは、永遠の破滅からの救いであることをしっかり受けとめたいと思います。勿論、キリストの十字架は、この地上を生きる私たちに対して罪に勝利する恵みを与える救いであることは言うまでもありません。罪に対する戦いが真剣になるのは、やはり死後の救いを考えるからだと思います。死後の救いをあいまいにするとき、地上の歩みでの罪との戦いが曖昧になります。
- 永遠の破滅を語る聖書箇所、終わりの日の裁きについて語ること箇所などを列挙し、思いめぐらしたいと思いました。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 永遠の滅び、最後の裁きなどを語る聖句箇所を列挙する。