2022年7月29日
(内容)
- 自分たちの中で誰が一番偉いかを議論している弟子たちにイエスは、偉くなりたい者はすべての人に仕える者になりなさいと教えられた。
(黙想)
- 弟子たちはイエスと生活を共にし行動を共にし、イエスの教えを聞いていた。しかし誰が一番偉いのかと議論をしていた。人の上に立ちたい、人から認められたいという根強い欲求が人間にあることを思う。これは牧師にもあるにちがいない。
- イエスは一番先になりたい人、言い換えると一番偉い人になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさいと教えた。常識的に言えば、偉い人というのは人々から仕えられる者である。偉い人ほど多くの人がその人に仕える。イエスは弟子たちの思いからすれば全く逆のことを教えられたことになる。
- 人を従わせるには二つの方法がある。一つは権力を用いる。従わない者には力を行使する。従わない者には不利益を与え、力づくて従わせるのである。もう一つは権威である。権威を持つ人に、人は自ずと従う面がある。
- すべての人に仕える人こそ、実は権威がある人だと主イエスは教えているように思う。
- イエス自身、次のように語る.「人の子は仕えられるためにではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。
- ところが、すべての人に仕えなさいというイエスの教えは、人から嫌われる教えでもある。人にはプライドがあり、仕えるよりも仕えられることを好むからである。
- 関連して子供を受け入れることはイエスを受け入れることであり、イエスを遣わした神を受け入れることであると言う。話しの流れから言って、「子供を受け入れること」は謙遜になることを教えるものと言ってよい。それがイエスを受け入れ、神を受け入れることになるとは、それが主イエスの教え、神の教えであると主イエスが語っていることになる。そして偉くなることを願う者は、すべての人に仕える者となれとイエスは教えている。権力を持つ偉い人ではなく、権威を持つ偉い人になることをイエスは勧めている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>偉くなりたい者はすべての人に仕える者となれと教える方。イエスは、人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来られたと語られた。偉くなりたいと考える弟子たちの思いとは正反対の歩みをイエスはなさった。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>偉くなりたいと願う者は、すべての人に仕える者となること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いのかと議論をしていました。主イエスはそれを知り、偉くなりたい者は、すべての人に仕える者となりなさいと教えられました。人は誰を偉いと思うのでしょうか。上に立って権力を振り回すものを偉いと考え、敬うのでしょうか。それともすべての人に仕える人を偉いと考え、敬うのでしょうか。
- 少なくとも信仰者の間では、権力を振り回す人を偉い人と考え敬い従うことはないと思います。むしろすべての人に仕える人を偉いと考え敬うのではないかと思います。
- 自分は牧師だから自分に従いなさいと言っても、人々は心から従うことはないと思います。牧師に対して恐れから従うことがあるとしても敬い従うことはないと思います。
- 私は牧師になった最初の年、中高生の修養会に出席した時、仕えることの大切さを見せられたことがありました。修養会が終わり、食事を終えた人から解散となりました。三々五々参加者が帰途につきましたが、年配の牧師が雑巾でテーブルを拭いているのを見ました。私の心には、それは牧師がすることではないという思いがありましたので驚きました。そして謙遜と言うこと、仕えるということがどういうことであるのか教えられました。これは神さまの素晴らしい導きであるとあらためて思います。
- 仕えることの大切さ、ブログに書いてみたいと思います。
☆与えられた導き
- 謙遜を教えられた体験をブログに書く