2022年9月3日
(内容)
- 弟子のヤコブとヨハネは、イエスが栄光を受けるとき、その左右の座に座らせてくださいとと願った。イエスは彼らに「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われた。
(黙想)
- イエスは弟子たちに「自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われた。栄光の主イエスの両脇に座するとは、身の程を弁えない思い上がった願いということである。
- イエスはこの二人の弟子に「わたしが飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」と尋ねた。これはイエスがこれから受ける苦しみを指している。十字架の苦難である。二人の弟子は、それが何か分からずに、「できます」と答えている。
- 栄光のキリストの左右にだれが座すのか、それは神が決めることであるとイエスは答えた。他の10人の弟子たちは二人に腹を立てた。二人が抜け駆けをしたからである。ということは、皆同じ功名心を持っていたということである。自分が認められる者になりたいとの願いは、人間にこびりついたプライドのなせるわざである。
- そこでイエスは、偉くなりたい者は皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさいを教えられた。そして「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」と語られた。
- 具体的には、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と語られた。名誉を求める心、上に立ちたいとの思いは、プライドと結びついた人間の欲求である。現代でも、この欲求に人々は生きている。しかしイエスはそれを否定し、むしろ仕える者となることを勧めた。この世の人はこれを愚かな教えと否定するだろう。
- しかし信仰者はこの教えに生きる。なぜか。イエスと自分がつながっていることを知るからである。イエスの教えだから喜んで従うのである。この教えに生きないキリスト者はイエスのことが分かっていないし、救われることがどういうことかも分かっていない。
- 仕える人は愛の人であり、自由の人であり、キリストに似た人であり、神に似せて造られた人である。イエスは神であるのに人となり、罪を犯している人間のために、御自分いのちを犠牲にされた。ここに尊いイエスの愛を見ることができる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人間の救いのために自分の命を献げる方。まさに人間の救いのために仕えてくださる方。
- <御子>神であることに固執せず、人間の身分まで身を低くされた方。
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>イエスは自らを低くする謙遜の模範である。
- <教え>イエスに倣うことは、イエスと一つ心になることである。これは幸いなことである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、人間はプライドという罪を持ち、偉くなりたいとの欲求を持ちます。それが罪と知らされ砕かれない限り、キリスト者といえでも、この罪から自由になることはむずかしいと思います。
- パウロは王たちや高官のために執り成しをすることを勧めています。多くの政治家は野心を持ち、野心に動かされて政(まつりごと)を行います。それは決して十分なものではありません。その不十分さは、民に向けられます。この国における政治が国民を第一とした政治となるように祈ります。そして政治家が公僕として国民に仕える政治家となるように祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- 王と高官のために祈る