2022年9月27日
(内容)
- ある人々がイエスを陥れようとして、イエスに問いを投げかける。しかしイエスの答えに彼らは驚いた。
(黙想)
- 人々がイエスの言葉じりをとらえて陥れようとしていたとある。悪意を見ることができる。他者に対して悪意を抱くことが神の前に正当化されることはない。立場が違うからといって悪意を抱き、相手を陥れようとすることは、神の前に罪である。
- この人々が誰かはわからないが、ファリサイ派やヘロデ派の人、数人をイエスのもとに送ったとある。イエスのもとに来た彼らの語る言葉も空々しい。「あなたは真実な方である」と語り、「真理に基づいて神の道を教えておられる」と語る。勿論、彼らは心にもないことを語っている。相手を喜ばせ、油断させ、陥れようとしているのである。
- イエスはそんな彼らの下心を見抜いている。悪意は露骨に表面には表れていないので、彼らの悪意ある態度については、イエスは忍耐している。
- 彼らの問いは、皇帝に対して税金を納めることは律法に適っているかどうかというものである。もし律法に適っていないと返事をしたら、税金を納めることは、神の御心に反することであると語ることになる。税金を納めるべきではないと語るなら、ローマに反抗することになる。
- もし律法に適っていると返事したらどうなるのか。ローマの支配を肯定することになり、イスラエルの民から反発を買うことになるのではないか。どちらに答えをするにせよ、イエスは不利な立場に追い込まれる。あくどい質問である。律法には、自分たちを支配する国への税金を納めるべきか否かについての記述はない。
- イエスの答えは素晴らしかった。投げかけられた質問に直接答えていない。イエスかノーを答えていない。従って陥れられることはない。
- イエスは、イエスご自身の答えを語っている。皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。質問に直接答えていない。しかしイエスは物事を本質から考えようとしているのではないか。
- 皇帝に税金を納める問題は、皇帝に関わる事柄だと考えるなら、皇帝に税金を納めれば良いし、税金は神に関わる問題なら、神にささげればよい。税金を払うか否かは、それぞれが決めることであるとイエスは答えたことになる。
- 人はとかく、杓子定規に物事を考える。こういう場合はこうする、と物事をマニュアル化していく。それが有効な場合もあるが、神の前にいかに生きるかという問題は、マニュアル化できない。そして神の戒め、律法も、それはなぜ与えられているのか、考えることは大切である。物事を本質から考えることは、常に大切である。
- 現代は、神の前での人間の罪を問題にする人は少ない。教会の中だけといえるし、罪をきちんと考える人が少なくなっている。キリスト教国では、礼拝出席者が減少しているし、日本のような異教の国では、伝道が困難になっている。どのように伝道を進めたらよいのか。重要な課題である。伝道について色々アイデアはあるかも知れない。アイデアを実践するのはよいことかも知れない。しかし伝道を本質から考えたらどうなるのだろうか。主イエスの弟子たちは、福音を伝える使命に生きていた。この使命の回復が大切なのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは人々が驚くような答えをした。それは物事を本質から考えようとしているからだと考える。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>他者に対して、悪意を持つこと、それを行いに移すことは罪である。
- <模範>イエスのように物事を本質から考えること。マニュアル化して物事を考えて良い場合とそうでない場合があることを知ること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。主イエスから、物事を本質に立ち帰って考えるように教えられました。私自身は伝道の最前線から退いていますが、やはり伝道をいかに推進するかは私にとっても課題です。伝道をこうしたら、というアイデアは色々あるかもしれませんが、本質的に考えたいと思いました。言い換えれば、神さまはどのように考えておられるのか、神さまの私たちに対する期待は何なのかと考えたいと思いました。
- 伝道の原点は、福音を伝えたいとの使命ですね。それはあなたから与えられた使命であり、また内から湧いてくる思いでもあると思います。そして何よりも、救われて生きるすばらしさを他の人たちにも分かち合いたいとの思いです。
- 伝道をどうするか、課題として考えていきたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 伝道をいかにするのか、課題として考える。