ローマ 3章22節 義とされたことを喜ぶ

2022年9月29日

(内容)

  • イエス・キリストを信じることにより、信じるすべての者に与えられる神の義が示された。

(黙想)

  • 神の義は、イエス・キリストを信じる人に与えられる。神はイエス・キリストを信じる人を義なる者と認めるという内容である。神の目にイエス・キリストを信じる人は正しい者である。現実には義ではなく、正しい者ではないが、神はそのように認め、イエス・キリストを信じる人をご自身との交わりに招く。
  • 人は他者をどう見るのか。親しい者については、自分の願う人であってほしいと考える。自分の期待通りであることを願う。そして期待通りでないと落胆したり、時に文句を言う。親は子どもに対して、期待通りの子どもであることを願うがそうでないと、叱ったり、子どもを受け入れないこともある。夫婦の間でもそうである。相手が期待通りの行動をしないと夫婦げんかが起きる。
  • しかし神は、違う。イエス・キリストを信じる人に対して、その罪を赦し、義と認め、ご自身との交わりに招く。人間の現実は、罪を犯してきているのである。これからも罪を犯す可能性がある。それなのに神はイエス・キリストを信じる人を義と認める。正しい者と認め、ご自身との交わりに招く。期待外れの人間(罪を犯す人間)を期待通りの人間(義なる者)と認めるのである。そして神は、人間がご自分の期待通りになることを願うし恵みを与える。
  • 神はなぜそのようなことをするのか。この神は人間を救う神である。神は人間がいかなる者かを知っている。人間は罪を犯す。その人間を神は救いたいと考える。それでイエス・キリストを信じる者を義とする。これは人間を救う神のやり方である。この神のやり方は、人間はすぐに理解できるわけではない。
  • 神は信仰者に私の戒めを守り、私の目に義と認められる者となれ、と発破をかけ、私の目にふさわしい者になったら、つまり私の目に義と認められる者になったら、私との交わりに迎えようとは言わない。逆に、神との交わりにまず信仰者を招き、私の目に義と認められるような者になりなさいと励ますお方である。
  • イエス・キリストを信じるなら、まず、自分が神の前に義と認められていることを信じ、喜ぶことが大切だ。自分は罪を犯しているから罪人だなどと言う必要はない。自分は罪を犯す者であることを忘れてはいけないし、神は私たちが罪を犯すことをどうでもよいと言っているわけではない。神は私たちが罪を犯す者であることは知っている。しかしあえて、義と見なし、神との交わりへと招く。神は人間を罪から救おうとされているのである。そして私たちを義なる者になるように義と認めうる者になることを願い、私たちを助け励ます。
  • どのような方法で神が人間を救おうとされているのか、それを謙遜に知ること、受け入れることが大切なのではないか。ロマ書は、神が人間をどのように導こうとしているのか、神の救いの道を語る。
  • 耳を傾けていこう。そしてまず義とされていることを喜ぼう

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>イエス・キリストを信じる者に神の義を与える方。イエス・キリストを信じる者を義と見なす方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>義とされていることを喜ぶ。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス・キリストを信じる者を義としてくださることを感謝します。私も罪を赦され、義とされていることを感謝します。それゆえ、いよいよ、あなたの目に義なる者となることを目指して歩みます。今日はその願いを込めて、「主われを愛す」であなたを賛美することにします。
☆与えられた導き
  • 「主われを愛す」で神さまを賛美する。

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4番
わが君イエスよ、われをきよめて
よきはたらきを なさしめたまえ
わが主イエス、わが主イエス
わが主イエス、われを愛す
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