マタイ福音書 6章9節(2)

2020年9月25日

(内容)

  • 主の祈りの「御名が崇められますように」との祈り。

(黙想)

  • この願いは、私たちが神ご自身に関心を持つことを求める。神に関心がなければ、神が人々から崇められようが崇められまいが、どちらでもいい。信仰者はなぜ神に関心を持つのか。それは神を愛しているからではないか。神を愛しているから、神がすばらしいお方として多くの人から崇められることを願うのではないか。
  • 偶像礼拝の場合、神は自分の願いを聞いてくれればよい。この場合、神の御利益が多ければ、多くの人が同じ神を崇めることになる。この神はすばらしい神だと多くの人が崇めるようになれば、この神を崇めることが誇らしくもなる。神を崇めるのは神が自分に利益をもたらしてくれるからであり、自分にとって得なので、その神を崇めることになる。なぜ神を崇めるのか。私たちの動機が問われる。
  • どのように崇めるかも大切だ。偶像礼拝でなかなか御利益が多いとして神が崇められるとき、どのように崇められるのか。奈良では、多くの人が神社仏閣に参拝に来る。信者、寺院の建物は立派であり、寺院には手を合わせる仏像もある。人々は手を合わせ祈る。多くの場合、願いごとを祈るだろう。手を合わせて祈る、それが崇める行為となっている。
  • 我々の場合はどうか。どのように神を崇めるのか。一つは礼拝。神をたたえ、神に祈り、神にささげものをし、神の言葉を聞く。ここには、人格を持つ神との交わりがある。我々は神との交わりに生きる。そしてその神が崇められることを喜ぶ。教会で他の信仰者と共に礼拝をする。家庭で個人的に礼拝する。
  • 崇めるとはどういうことなのか。神に対してふさわしい態度を取ることといえる。何がふさわしいのか。神をたたえ賛美する。神のみ心を知り、これに従う。祈りをささげる。そこにある私たちの動機は、愛である。神への愛は、崇めるという形で表現される。
  • 誰が神を崇めるのかと言えば、それは何よりも自分自身である。自分が神を崇めずして、神が崇められるようにとの祈りは偽善の祈りである。そしてできるなら、多くの人たちと神を崇めることができればうれしい。伝道も神を崇める行為となる。
  • 主の祈りは、「御名が崇められるように」と祈ることが勧められる。祈ればよい。となれば、できるだけ多く、祈ることがよいことになる。少なくとも毎日1回は祈ることが必要である。あるいは祈る時にはまず主の祈りを最初に祈ることもよい。ただ形式となってしまわないように注意が必要だ。
  • この祈りが空しくならないためには、聖書を読み、祈るという神との交わりが生きた交わりとなることが大切だろう。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御父)神は崇められるべきお方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (勧め)神を愛し、神が崇められることを願うこと。
  • (勧め)神を崇める者にふさわしい歩みをすること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。あなたを愛します。あなたを崇めることがあなたを愛することであり、あなたに対してふさわしいことだと教えられました。
  • 主イエスは何よりも「御名が崇められますように」と祈ることを教えられました。聖書を読み、あなたに祈る時は、主の祈りを祈りたいと思いました。自分があなたを崇める者であり、あなたを愛する者であることを確認したいと思いました。
☆与えられた導き
  • 聖書を読み祈る時は、主の祈りを祈る。

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