2022年8月8日
(内容)
- 内面がユダヤ人こそユダヤ人であり、心の割礼を受けた人こそユダヤ人である。外見のユダヤ人、外見の割礼を受けたからと言ってユダヤ人とは言えない。
(黙想)
- パウロは真のユダヤ人はどのような人を言うのかを語る。外見上のユダヤ人が真のユダヤ人とは限らないことを語る。ユダヤ人は神の民である。
- 17~20節でパウロは、「あなたがたはユダヤ人と名のり」と書き、自らユダヤ人と名乗っている者たちを描写する。彼らは
①ユダヤ人と名乗る。
②彼らは律法に頼り、律法に教えられて何を為すべきかをわきまえている。
③自分たちは、盲人の案内者、無知な者の導き手と自負している。
- 21~23節でパウロは、「あなたは律法を他人に教えながら自分を教えないのか」と言う。律法を知っていても実際には律法を破っており、神を侮っていると指摘する。
- 24節。その結果、神の名は異邦人の中で汚されているという。
- 25~26節。ユダヤ人は割礼を受けていることを誇るが、律法を守ってこそ誇りに思うことができる。律法を破るなら、割礼を受けていてもそれはむなしい。割礼を受けていなくても律法を守るなら、割礼を受けた者と見なすことができる。割礼は神の民のしるしであり、律法を守ってこそ、神の民であると証しできる。
- 27節。割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたがたを裁くという。律法を守っている者は、律法を破っている者を裁くことができる。ここでパウロは、名ばかりのユダヤ人を「律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っている」と書く。
- 28節。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、肉に施された割礼が割礼ではないと語る。外見上のユダヤ人は、名ばかりのユダヤ人である。
- 29節、内面がユダヤ人である人が真のユダヤ人と語る。内面がユダヤ人とはどういうことか。律法を守るユダヤ人である。また文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼であるという。
- 話しの流れから言えば、名ばかりのユダヤ人は律法を破っている。しかし内面がユダヤ人の人は、律法を守っている。名ばかりのユダヤ人と内面がユダヤ人が対比されている。
- ここではまず一般論として、ユダヤ人を名のりながら律法を破っている名ばかりのユダヤ人がいること、そして律法を守る努力をする内面がユダヤ人の人がいると語っている。肉の割礼は、ユダヤ人のしるしであるが、律法を破るなら割礼は意味がない。
- 内面がユダヤ人の人がいるように、心に施された割礼というものがある。
- そうすると名ばかりのキリスト者がいることが予想される。自分が名ばかりのキリスト者であってはならないことを思う。真のキリスト者はどのような存在か。それはこの手紙で語られる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>名ばかりのキリスト者であってはならない。
- <警告>名ばかりのキリスト者の存在は神の名を汚し、伝道を妨げる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、名ばかりのユダヤ人、名ばかりの神の民がいることを知らされました。しかしその人は、自分がユダヤ人であることを誇っているのです。律法を知っていることを誇りますが律法を破っていると言われます。
- 私はキリスト者ですこの箇所を読む時、名ばかりのキリスト者であってはならないことを教えられます。礼拝説教や聖書を読む中で、キリスト者としてどのように生きるかを知らされながらそれを破っているとしたら、名ばかりのキリスト者となります。罪を犯しても赦してもらえるからと言って、罪を犯すことに安住してはいけないと思います。
- キリストによって私たちを救ってくださった神さまは、私たちがどんなキリスト者になることを願っておられるのでしょうか。それを知ることが大切ですね。それはこの手紙で順に書かれています。これをしっかり受けとめることができるように導いてください。名ばかりのキリスト者となることだけは避けたいと思います。私が名ばかりのキリスト者の振る舞いをしそうになった時、あるいは振る舞いをした時は、それに気づかせてください。
☆与えられた導き
- 気づきを与えられるように日々祈る。