2022年11月25日
(内容)
- 不信心な者を義とする方を信じる者は、働きがなくてもその信仰を神は義とする。
(黙想)
- パウロがアブラハムの例を引き出し、またダビデの例を引き出すのは、ユダヤ人を想定していると思われる。ユダヤ人は、律法を守ることによって人は義とされるという考えが身に染みついている。そこで神は昔から、信仰を義とする方であることを伝えようとしている。
- ガラテヤ教会に見られるように、救われるためにはイエス・キリストを信じるだけでは不十分で、割礼が必要だと教えるユダヤ人キリスト者がいた。彼らが割礼の必要を説き、ガラテヤ教会を混乱させたことがパウロの念頭にあると思う。
- しかしユダヤ人だけではない。異邦人の我々でも、ただ信じるだけで義とされることを単純に信じることができず、心のどこかで、義とされるためには、言い換えると救われるためには、神の教えを守らなければならないと考えているように見える。その証拠に、神の教えを「守らなければならない」との発言を聞くことが少なくない。なぜ守らなければならないと考えるのか。
- そこでダビデが引用される。これは詩編32編である。不法を赦された人の幸いを歌っている。この詩人は罪を犯した。おそらく、罪を咎める神の御手を重く感じていた。神の御手から逃れるすべがないことを感じていた。どうしていいか分からなかった。神の裁きを免れることができるとは思えなかった。神の裁きが重くのしかかる。耐えきれず、ついに自分の罪を神に告白した。自分の背きを告白した。「ようやく自分の罪を認めたな、お前に対する裁きはこれだ」と神に言われることを覚悟した。
- すると驚くことに、思いがけなく神は罪を赦してくださった。そこで感謝の祈りが生まれた。7~8節の詩編32の引用は、不法を赦された人の幸いが歌われている。自分の罪が本当に神に赦されたと信じる人は、神に従う道を歩もうと考えるのではないか。
- 神は、不信心な者を義とする方を信じる者を義とする。そしてその人の罪を赦す。「主から罪があるとはみなされない人は幸いである」。これは甘やかしだと批判するユダヤ人がいるにちがいない。律法学者などは律法を守る努力をしている。それに対してパウロは、律法の行いによっては義とされないと語り、しかも罪を犯した者が神を信じれば、罪は罪と認められない、と言う。ユダヤ人の目から見れば、いい加減な甘やかしの理屈に見えたにちがいない。だからガラテヤ教会で律法を守ること、具体的には割礼を守らなければ救われないと教えるユダヤ人キリスト者がいた。
- ここでは、罪を罪と認められない人の幸いを十分味わうことが大切だ。次に、神は義とされた人に対して、律法を満たす道を用意しておられることを知ることも大切だ。3章の終わりで「私たちは信仰によって律法を無にするのではなく、律法を確立するのである」と書いている。
- 救いの恵みは罪を赦すことで終わらない。律法を確立するように神は人を救うのである。このことを信じるからこそ、神は不信心な者を義とするのである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>不信心な者を義とする方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>主から罪があると見なされない者は幸いである。信仰によって義とされる者は幸いである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あらためて思います。信仰によって義とされるとの教えが、安易に受けとめられていることを。パウロはそもそもこの手紙を信仰の従順へ導くために書いています。信仰の従順ですから、信仰者は律法を確立するように導かれます。[「罪を赦されて感謝です」で終わってしまうのでは信仰の従順に至りません。
- 福音が十分に宣べ伝えられていない現状があります。これは教会の果たすべき責任です。そして私が憂えているからといって、私の力で解決できるものでもありません。私の務めは福音が余すところなく宣べ伝えられるように祈ることと弁え、祈っています。ブログでもメッセージを発信しています。
- 今、このような歩みを続けていることを感謝して喜びたいと思います。そしてこれからも続けたいと思います。信仰義認の教えは氷山の一角で水面の上に現れた部分です。そして水面下に福音という本体を持っています。この福音について、なお学び続けます。導いてください。
☆与えられた導き
- 引退後の聖書の学びを感謝し喜び、祈りつつ学びを続けていくこと。