2022年12月31日
(内容)
- アブラハムはすべて信じる者の父であることをパウロは繰り返し語る。
(黙想)
- アブラハムには神から、カナンの土地を与えるとの約束がなされた。それは実現した。ここではパウロは、世界を受け継がせるという約束を神はアブラハムとその子孫に与えたと書く。
- 世界を受け継ぐとはどういうことなのか、具体的な説明はない。主イエスは、山上の説教の中で「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」と語られた。これは神の国を受け継ぐと理解してよいのではないかと考える。イエス・キリストを信じる者への約束と考える。
- パウロはアブラハムの信仰が義と認められたのは、割礼とは関係がないし、律法に基づいてでもない、ただ神の約束を信じたからと書く。割礼や律法を重んじるユダヤ人に対してていねいに説明している。
- パウロ自身かつては律法を重んじていたし、律法の実践も大切にしていた。しかしイエス・キリストに出会い、神の約束を信じることが信仰の中心であることに目覚めたのである。約束とは神の恵みであり、神の恵みに生かされるのが信仰である。このことを何としても伝えたいのがパウロである。
- そしてアブラハムを信仰の父と繰り返し語る(12節、16節、17節)。信仰とは神の約束を信じることである。
- 17節は、神がイサクを神に献げるように命じたことと関係している。このことについては、18節以降で詳しく語ることになる。神はアブラハムの子孫が増えることを約束した。しかしイサクを献げるように命じた。この場合、イサクをいけにえとして献げるので、献げるとは、殺すことである。イサクを献げたら、子孫はどうなるのか。悩むところである。
- アブラハムは、神は約束を実現するお方、たといイサクを献げイサクが死んだとしても、神はなお約束を実現すると信じた。
- アブラハムは神の約束を信じた。信仰とは漠然と神を信じるのではなく、神の言葉を信じること、神の約束を信じることである。アブラハムは信仰者の父である。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <御父>約束を与える方。約束は恵みでもある。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>信仰とは、信じることであるが、神の約束を信じることが大切である。
- <教え>アブラハムは信仰者の父である。
(神の導き)
☆祈り
天の父なる神さま、パウロが繰り返していねいにアブラハムが義とされたことは信仰によるのであり、割礼や律法とは無関係であることを語ります。ていねいに説明してもユダヤ人、ユダヤ人キリスト者はすぐには納得できないかもしれません。
私はユダヤ人ではないので、割礼や律法に対する固執はなく、素直に信仰によって義とされたことを信じることができます。思いめぐらしながら思ったことは、アブラハムが信仰の父であることです。信じること、それが大事であることをあらためて思わせられます。聖書に書かれている、色々な神の約束、時に疑い、信じがたく思えるときもあります。しかしアブラハムは、神の約束を信じ抜いたことを思います。アブラハムを父とし、私も信じる者になります。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)
☆与えられた導き
・アブラハムを信仰の父とする。