2024年9月10日
(内容)
- イエスは、群衆が弱り果て打ちひしがれているのを見て、収穫は多いが働き手が少ないと思われた。弟子たちに収穫のための働き手を送るよう神に祈るように命じた。
(黙想)
- イエスの活動をまとめた段落である。イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、憐れまれた、とある。
- まず、イエスは憐れみ深い方であると知る。イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見た。そして深く憐れまれた。その憐れみは病気の癒やし、悪霊の追い出しを求めてきた人々に注がれた。
- 「飼い主のいない羊」という表現は、比喩なのか。それとも文字通りなのか。
- 比喩なら、飼い主のいない羊は自分で食物を得ることができず、弱り果てる。そのように群衆が弱り果て、打ちひしがれている様子を描写する言葉となっている。
- 文字通りに取るなら、群衆には彼らの飼い主がいないので、弱り果て、打ちひしがれているとなる。飼い主がいないことが問題となる。
- イエスは弟子たちに働き手を送ってもらうように収穫の主に願いなさいと語った。この働き手は、福音を宣べ伝える。福音を宣べ伝える者がいて、人々は福音を聞くことができる。福音を聞くことができなくて、人々は弱り果て、打ちひしがれていると理解すればよいのか。
- 教会には牧師がいて、信徒である羊を養う役目が与えられている。牧師は礼拝で福音を語り、聖書を説き明かす。聖書の言葉こそ、信仰者を生かす言葉、すべての人間を生かす言葉である。
- この世界には福音を知らず、イエスを信じない人たちが沢山いる。弱り果て打ちひしがれている人もいれば、元気そうに生きている人もいる。
- イエスは群衆は弱り果て、打ちひしがれているのを見た。具体的に群衆の中に何を見たのか。貧しくて苦しんでいるのを見たのか。病気で苦しんでいるのを見たのか。群衆はただ生きるのにあくせくして、生き甲斐を感じていないように見えたのか。
- イエスは会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えた。イエスの伝道開始の言葉は「悔い改めよ、天の国は近づいた」である。今までの生き方をあらため、天の国に生きるように教えたことになる。生きて働かれる神の御支配を信じ、この御支配の中を生きるように教えた。神の御支配があることを病気の癒やし、悪霊を追い出すなどのわざを通して示された。
- 弱り果て、打ちひしがれている群衆を救うのに何が必要なのか。イエスが語る働き手は福音を宣べ伝えるものである。福音こそ、人々を生かすものである。
- この日本でも福音を宣べ伝える者は少ない。もっと伝道者を送ってくださいと神に祈ることも大切だ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>憐れみ深い方。
- <御子>働き手を送ってくださるように祈れと命じる方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>収穫のための働き手を送ってくださいと神に祈ること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。主イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になって、弟子たちに働き手を送ってくださるようにあなたに祈るように命じられました。
- 現代でも、牧師のいない教会があります。礼拝に集う人数が少なく、牧師を迎えることのできない教会が多くあり、また神学校に入学する人が少なく、伝道者が少なくなりつつある現実もあります。
- まず主イエスの仰せに従って伝道者を送ってくださるように祈ります。神学校に入学する人を増やしてくださいと祈ります。
☆与えられた導き
- 神学校に入学する人を増やしてくださいと祈る