2019年5月4日
(内容)
- 復活されたイエス様が弟子たちの前に現れた。信じられない弟子たちに対して、「どうして心に疑いを越すのか」と咎めたが、焼かれた魚を食べ、ご自分であることを示した。弟子たちに聖霊が降るのを待つように指示した。
(黙想)
- イエス様は、ご自分が復活されたことを信じようとしない弟子たちに「どうして疑いを起こすのか」と咎めた。何かを信じようとする時、それは本当か、との疑い、疑念が湧いてくることがある。信じることと疑うことは、コインの表と裏側の関係のように思える。しかしイエス様は心に疑いを起こすことを咎められた。それはイエス様の復活の出来事が預言されていたことの成就であったからではないか。単に復活という人間の思いを超える出来事が起きたことを信じるか否かではなく、預言の実現であるから疑うことを咎めたのではないか。預言は神の言葉であり、神の言葉を疑うことをイエス様は咎めたと言える。
- そして「わたしについてモーセの律法を預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言われた。イエス様の十字架の死も、聖書に書かれている事柄の実現として受けとめるのである。復活は聖書に書かれていることの一つでしかない。
- 46節以下では、罪の悔い改めの宣教も聖書に書かれていることとして実現することをイエス様は語られる。そして父の約束として、聖霊を弟子たちに送ると約束された。イエス様の言われたように、罪の悔い改めの宣教は、世界中至るところで行われている。これからも行われていく。
- 上からの力とは聖霊である。使徒たちはペンテコステの日に、聖霊を受け、迫害をものともせず福音宣教を行った。聖霊の助けは福音宣教に不可欠である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- (御子)イエス様は神の言葉の実現を重要と考えるお方である。御自分の復活を信じない弟子たちを咎められたが、それは単に復活のできごとを信じなかったことを咎めたのではなく、復活は預言(神の言葉)の実現であるから、信じないことをイエス様は咎めた。信仰にとって、神が語られることは本当に大切なのである。
☆神が私たちに求める生き方
- (勧め)私たちも神の言葉の語ることを本気で信じることが求められる。弟子たちにとってイエス様の復活は、私たちにとっては、イエス様の再臨であり、終末の事柄である。終末の到来、それは現代人には絵空事に思えるかも知れない。そう思う心が自分の中にあることは確か。しかし聖書が語るゆえに、神の言葉として語られているゆえに、その実現を信じることは大切である。神の言葉は真実であるとする信仰は、人間の思いを超えることを信じさせる。信仰は聖霊の賜物。
- (警告)心に疑いを起こすことが咎められる。疑いが起きる時、それは選択する時である。神の言葉を信じるか否か。信じるために聖霊の導きを求めるか否か。自分が信じられることだけを信じる信仰者になるのか、聖書が告げることを神の言葉として信じていくのか。選択は自由。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、イエス様は心に疑いを起こすことを咎められました。それは、預言されていることが起きたのに信じないからでした。信仰とは、神の言葉を信じることと教えられます。私にとって終末の事柄を信じることが課題です。終末の事柄は聖書に書かれています。それゆえ、これを信じない時、「どうして心に疑いを起こすのか」とのイエス様の声が聞こえてくるようです。いや、イエス様の声を聞きたいです。そして信じる者へと導かれたいです。信仰は聖霊の賜物ですから、終末の事柄を疑うことなく信じることができるように、聖霊の助けを求めます。聖霊の導きを与えてください。
- 天の父、イエス様は「次のように書いてある」と語り、メシアが苦しみを受けること、三日目に死者の中から復活すること、さらに罪の赦しを得させる悔い改めがあらゆる国に宣べ伝えられること」は聖書に書いてあると語られました。聖書のどこに書いてあるのか、確認したいと思いました。これも導いてください。
☆与えられた導き
- 終末の事柄を疑うことなく信じることができるように聖霊の導きを祈る。
- 聖書を調べる。
*メシアの苦しみ イザヤ書63章
*メシアの復活 明確に述べている旧約はない。
*悔い改めの宣教 明確に述べている旧約はない。
メシアの復活と悔い改めの宣教は、旧約が間接的に指し示していることと言えるのではないか。