2021年2月1日
(内容)
- 求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。祝福に満ちた約束である。
(黙想)
- 聖書の中でもとても有名な箇所である。すばらしい約束である。いや最高の約束である。この約束に励まされて色々と祈り求めた。しかし自分の願い通りにならなかったことも何度もあった。自分の願いが御心ではなかったと解釈できる。でも利己的な求めではないのに、隣人のための求め(祈り)であるのに願い通りにならなかったことが何度もある。するとこのイエスの約束の言葉をどう受けとめてよいのか分からなくなる。これが正直な気持ちである。
- 今回は別な視点でこの箇所を読むことにした。僕の聖書の読み方の弱点を知った。つまり聖書は文脈に沿って読むということ。それは心がけているがまだ足りない。7章の1~6節では人を裁いてはいけないとイエスは教えられた。私たちには、人を裁き、自分をましな人間と思いたがる傾向がある。人を批判し、やっつけ、優越感を得たいと思う傾向がある。これに対してイエスは裁くなと教えられた。
- そして12節では、「だから人からして欲しいことを人にしなさい」と教える。人からして欲しいことをまず人にする、これは黄金律と呼ばれる教えで、すばらしい教えである。しかしなかなか実行できない。人のために尽くすことが命じられ、それをしても自分の何の益があるのかと考え、人からしてもらえれば自分することができるが、自分から先にして相手からの反応が何もなければ、損をするではないか、なかなか実行できない教えである。もしこれが実行できたらすばらしいとキリスト者は考えるだろう。実行するかどうかは別である。すばらしい教えと知っていても実行しない。それが私たちの現実であろう。
- キリスト者といえでも、人を裁きがちなのである。人を裁きがちな私たちが、自分がして欲しいことを人にすることには、大きなギャップがある。そこで「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」との求めよとの勧めがなされ、この求めは必ずかなえられるとのイエスの約束がある。
- つまり、この文脈を考えればキリスト者が求めるのは自分が、裁く人から自分にして欲しいことを人にするキリスト者になることである。このことをイエスは教えていると理解できる。そうするとこの求めの教えは、求めれば与えられるという一般的な約束を教えてはいない。新共同訳聖書は、7節で新しい「見出し」を付けているのは、文脈を無視したものであり、聖書を誤解させることにつながると解釈できる。
- キリスト者といえども罪を犯す。人を裁く。そのようなキリスト者が人からして欲しいことを人にする信仰者に変えられることは、求めれば実現するとイエスは約束される。自分が変えられることを求めるなら、神さまは必ず考えてくださると僕は確信する。実際僕も変えられてきた。「だから」人からしてほしいことを人にするのである。
- 愛の薄い人間から人を愛する人になること、それは求めればかなえられるとイエスは約束している。7節以下の「求め」に対する約束をどう理解するのか、腑に落ちた。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
(勧め)人を裁く人間から、人からして欲しいことをする人間になることを求めること。
(神の導き)
☆祈り
天の父なる神さま、求めれば与えられるとのイエス様の約束、感謝です。これは一般的に求めれば与えられるという約束ではなく、人を裁く人間が、人を愛する人間に変えられるとの約束と受けとめることを教えられ感謝します。このイエス様の約束の言葉をスッキリ理解できました。
私には人からして欲しいことが一つあります。私は人間関係が苦手でひとりでいる方が好きです。人間関係を築くことから逃げてひとりでいる傾向もあります。あらためて、こちらから働きかけて人間関係を気づくことに踏み出すように教えられた思いがします。何となく近寄りがたい印象を与えがちな私ですから、ここから脱却したいと思いました。相手に対して関心を持ち、声をかける努力をしたいと思います。奈良高畑教会が毎年発行している小冊子を読んで、教会員のことを良く知る努力をしたいと思います。まず相手を知り、自分を知ってもらい、よい関係を築くことを心がけます。
☆与えられた導き
・12月に発行された『羊群』を読む。