2021年2月8日
(内容)
- 狭い門から入りなさいとの命令。狭い門から入り、狭い道を歩き続けることは命に通じる。広い門は滅びに通じている。
(黙想)
- イエスは、狭い門から入りなさいと言う。しかも「なんと狭く」とあるように見極めることが困難な狭さに思える。そして門を入った後に続く道は細いという。入り口の門はとても狭いので、見いだす者が少ない。その狭い門は命に通じる門である。そして多くの人たちは広い門を入り、広い道を歩むが、その道は滅びに通じているという。
- 狭い門があることを知らなければ、これを見いだすことはほとんどない。偶然に見いだすことはあるかも知れないが、狭い門の存在を知らなければ、人々はこれを見いださず、広い門から入る。狭い門から入る人は、広い門から入るのは何か違うと感じ、自分が入るべき門を探し、狭い門を見いだすのではないか。
- イエスは狭い門を入ることについてすでに語っている。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(5:16)。「兄弟に腹を立てない」(5:22)。「みだらな思いで他人の妻をみない」(5:28)。「悪人に手向かわない。右の頬を打たれたら左の頬をさし出す」(5:39)。「敵を愛する」(5:44)。「完全な者となりなさい」(5:48)。施し、祈り、断食、これらをする時、誰にも知らせないようにする。天に宝を積む、富ではなく神にのみ仕える、思い悩まず、人を裁かない。これを実行することが狭い門から入り、細い道を歩くことである。
- 山上の説教は、キリスト者に向けられた説教である。イエスの弟子に向けられた説教である。広い門から入るのは未信者で狭い門から入るのはキリスト者であるとの理解は正しくない。広い門から入る信仰者もいる。だからイエスは山上の説教を語り、イエスの説教に聞いて従うことを求めている。その人が狭い門から入る人である。
- これまで語られてきた山上の説教を自分はどう受けとめたのか。山上の説教で示された生き方は決して簡単なものではない。大抵のキリスト者は、これはむずかしいと言うにちがいない。だからこそ、山上の説教に生きることは狭い門から入り、狭い道を歩くことになる。それが命に通じているという。
- そもそも「命」とは何か。「滅び」とは何か。現代の人は「滅び」を信じていないだろう。現代人にとって確かなことは人は死ぬということ。これを否定する人はいない。そして死後のことは分からないとする。ぼんやりと天国を期待する人は少なくないみたいである。地獄を信じる人は少ないと思う。現代人にとって大切なことは、この世の人生をいかに幸福なものとするかである。何が自分にとって幸福なのかは、人によって違う。それぞれの人は自分の価値観によって生きる。
- イエスは滅びを語る。滅びとは何か。聖書が語る滅びとは何か。基本的に滅びとは、神に見捨てられることと思われる。この箇所のすぐ後の23節にそのことが示されている。「あなたたちのことは全然知らない」「わたしから離れ去れ」。この山上の説教の中で「地獄」という言葉が出てくる(5:22、5:29,30)また「天の国」についても語っている(5:19,20)。
- キリスト者はなぜ、細い門から入ろうとするのか。命に通じるからである。イエスはキリスト者なら細い門から入ると考えている。
- イエスは神のことを天の父と呼び、キリスト者が神の子となることを語る。天の父が完全であるようにあなたがたも完全な者になりなさいとまで教えている(5:48)。キリスト者は天の父から価値ある者と見なされている(6:26)。天の父は求める者によいものをくださる(7:11)。キリスト者とは天の父との関わりに生きることを大切にし喜ぶ。天の父の御心を行うことを喜ぶのである。そうすれが天の国に入ることができる(7:21)。
- もし山上の「教え」だけに注目し、これを実行できるかと問われたらむずかしいとの答えになる。狭い門を入って細い道を歩くことはできないと考える。そして私たちは狭い門を避けるのではないか。キリスト者は「教え」でなく、「父なる神」に注目する。キリスト者は父なる神に愛されている。父なる神は私たちを価値ある者と見なしてくださる。私たちによいものを与えようとしておられる。この父なる神を愛して生きるかどうか。父なる神との交わりに生きるか否か。この父なる神との交わりに生きる時、私たちは神が与えてくださる命に生きていることになる。
- イエスから見て細い門は、教えを実行できないから入るのがむずかしいのではなく、私たちは隣人よりも、神よりも、自分を大切にしているので、神を愛し、隣人を愛することができない、この自己愛こそ、狭い門を拒んでいることになると教えておられるのではないか。
- 大事なことは狭い門から入ると決断し、細い道を歩き続けること。山上の説教に生き続けること。できるできないではなく、イエスの教えに従いたいと思うかどうか。父なる神さまを愛して信頼して、父なる神さまに求めて生きていくかどうか、それが大切とイエスは教えているのではないか。
- イエスも死に至るまで、十字架の死に至るまで、父なる神のみ心に従順であった。つまり細い道を歩み続けた。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>狭い門から入るように教える方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>細い門から入ること。父なる神との交わりに生きること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、細い門から入るようにイエス様は招かれました。この招きに従って歩みます。狭い門から入り、父なる神さまとの交わりに歩み、父なる神さまの教えに従います。できるできないではなく、従うことに努力します。山上の教えにも従う努力をします。
- 死後の滅びについては正確なことは分かりませんが、死が恐ろしいのは結局自分が見捨てられるからだと思います。聖書は神を信じ、神につながって生きることを教えます。神につながる、そこに命があり、この命は永遠です。そして神とのつながりは、私たちの死をもって切れることはなく、とこしえに続くと信じます。
- 何よりも神さまとの交わりが大切ですね。今の私の課題は神さまを知ることです。神さまを知る結果、神さまの栄光をたたえるようになることを願っています。神さまは私たちが信頼すべき方であると知る、神さまは私たちが服従すべき方と知る、神さまをほめたたえるべき方と知る、求めるべき良いものはすべて神さまに求めれば良いと知る。そのように知って、神さまの栄光をたたえる者となりたいです。
- 今私は「あなたを知る」ことを課題にしています。細い道を歩むためにもさらにあなたを知ることができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 「神さまを知る」ことができるように今日も祈り求める。