2021年3月3日
(内容)
- ユダはイエスを裏切る思いを抱き、具体的に動き始めた。イエス様は過越の祭を祝うために弟子たちと共に食事の席に着いた。食事の最中に裏切り者のいることをイエスは弟子たちに告げた。
(黙想)
- イエスの受難物語が進展していく。この箇所では、弟子のユダがイエスを裏切ることが明らかにされる。ユダの裏切りが受難への大きなきっかけになったことを予想させる。
- イスカリオテのユダがイエスをなぜ裏切ろうとしたのか、その理由は記されていない。つまり私たちには分からない。ルカ、ヨハネ福音書はユダの中にサタンが入ったと書く。
- 内部から裏切り者が出るという話しは、よくある話しである。弟子のユダの思いがイエスの思いと食い違い、それが裏切りにつながっていった。ユダには強い思いがあった。彼にはイエスのもとを去るという選択肢もあったと思うが、そうしなかった。相当強い思いがユダにあり、それに突き動かされたのではないか。敢えて言うなら、イエスを赦せなかったのだろうか。だから裏切りへ走った。イエスの思いとの不一致。それは私たちも抱きかねない。
- そして過越の食事の最中にイエスは弟子たちの一人が自分を裏切ろうとしていると弟子たちに告げる。これは弟子たちを動揺させた。イエスが自分たちの中に裏切る者がいると語るのだから弟子たちは驚く。弟子たちは代わる代わる「私ですか」とイエスに問う。どの弟子もこれまでイエスと一緒に行動してきた。裏切り者と特定できる様子を示す弟子などいない。イエスは自分のことを裏切り者と考えているのか、不安に弟子たちは思った。誰だって自分がイエスに完全に従っていると断言できる人はいない。信仰者といえども、イエスを裏切るような行いをしていないとは言えない。
- イエスは裏切る者について、「不幸だ。生まれなかった方がよかった」と告げる。こんな不幸を味わうなら生まれなかった方がよかったという不幸とはどのようなものなのか。それは地上で人が経験するような不幸ではない。地上でどんな辛苦を味わっても人は立ち上がることができる。イエスが語る不幸、それは神によって与えられる滅びを指しているのではないか。
- するとユダが「私のことですか」とイエスに尋ねる。それに対するイエスの答えは、日本語としては分かりにくい。「それはあなたの言ったことだ」とは平たく言えばどういうことか。あなた自ら「私のこと」と言っているよ。そうあなただ、とイエスは言っているのか。
- イエスの身になって考えてみる。自分が選んだ弟子の中に裏切る者がいる。イエスはユダを選んだ時、ユダが将来裏切ることを予測できたのか否か。それは分からない。ある時点でユダの裏切りの思いを知ったと思われる。その時イエスはどんな思いをしたのか。ユダを憎んだのか。自分が選んだ弟子たちの集団とは言え、一人ぐらいはついてこない者がいても不思議ではないと考えていたか。自分の考えに共鳴してくれない人がいても当たり前と考えていたか。わからない。
- ユダの裏切りも神の計画の中のこととして受け入れるのか。神の計画というのは、人間が予測できるとは限らない。思いがけない展開をすることもある。イエスにとって裏切り者がいたことは驚きではなかった。神の計画の中でのこととして受け入れたのではないか。神に信頼してなければ、なぜこんなことが起きるのか、と神に文句を言うこともあるかも知れない。ユダの存在は、神の計画の一部として受け入れることができただろう。
- 次に食事の時に裏切り者の存在をなぜイエスは弟子たちに告げたのか。イエスはだれが裏切り者であるかを積極的に明らかにしようとはしていない。なぜ告げたのか。弟子たちを驚かせることになる。イエスが捕らえられ、やがて十字架で処刑されるという事柄に弟子たちが驚かないように対処されたのか。本当の理由は分からない。
- 「まさかわたしのことでは」というユダの言葉をどう考えるか。普通なら、自分が裏切り者だとは知られたくないので、何も言わずに黙っているのではないか。あるいはイエスの追求が始まる前に自分から名乗り出たのか。
- 心理の追求は予想でしかない。事実としてはユダはイエスを裏切る行為に走ったこと。イエスはそのことを知っていたこと。イエスはおそらく神の計画の中のこととして受け入れたであろう。ユダについては憎むことなく、ユダの決断を悲しんだと思われる。つまり「不幸だ。生まれなかった方がよかった」と語った。
- 我々は神の前にどのような決断をして生きているのかと考える。神に祝福される決断をして生きたいと思う。肉の思いに流されず、肉の思いに抵抗し、勝利し、神に祝福される決断をしていきたい。
- イエスは、ユダの裏切りを神の計画の中のこととして受け入れたと推測する。自分の身に起きる思いがけないことも神の計画の中にあると信じる。そのためには、神の計画の中に生きて行くとの志が必要となる。
- 受難節に「あること」を覚え、神の計画の中に生きることを自分の志とする。自分の身に起きることは何であれ、神の御心にあると考えること。イエス・キリストを通して与えられる救いの恵みをすべて受け取るということ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>ユダの裏切りを知っている。弟子たちに裏切る者のいることを告げた。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>私たちにはイエスを裏切る可能性があるということ。弟子たちはイエスが捕らえられる時、イエスを見捨てて逃げた。この場面では、弟子たちは自分の中にある裏切りの可能性を知っている。我々も神の御心に背いて生きることはある。
- <警告>神に逆らうことは大きな間違いであると知ること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様は神のご計画の中を歩んでいます。ユダの裏切りも十字架に向けての歩みの中で起きることと受けとめていました。あらためて私も神さまのご計画の中に生きていることを確認します。この国での伝道が困難な状況の中に私が置かれていることも、神さまの計画の中にあると確認します。その上で自分の役割を考えることにします。もちろん、考えていますが、自分は神さまのご計画の中にあることを確認できたことは幸いでした。感謝します。
- イエス様は人類を救う神さまのご計画に献身し、十字架に向かって歩んでおられます。罪からの救いとは何を意味しているのか、そこにはどのような恵みが含まれているのか、あらためて確認し、伝えたいと思いました。整理したいと思います。ブログで伝えたいと思いました。感謝します。
☆与えられた導き
- 神の計画の中にいる自分を覚え、今自分が為そうとしていることに励む。
- イエス・キリストの救いの恵みとして与えられるものを列挙する。救いの恵みをすべて受け取っているか確認する。