2023年5月8日
(内容)
- イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。
(黙想)
- ヨハネはイエスが彼のところに来た時、なぜイエスが、彼の後から来る者、彼よりすぐれた者であると認識したのか。ヨハネ福音書では、ヨハネが洗礼を授ける時、その人の上に聖霊が下ってとどまる人がいたら、その人が、ヨハネよりすぐれたものであると神はヨハネに教えている。
- マタイでは、ヨハネは何らかの仕方で彼のもとに来たイエスを見て、自分よりすぐれた方であると認識している。なぜそのように認識できたのかは書かれていない。
- しかも、イエスが洗礼を受けるのをとどめ、自分こそ、あなたから洗礼を受けるべき者であると語った。罪の悔い改めの洗礼であり、ヨハネはイエスには洗礼を受ける必要のないことを知っている。そして自分こそ、イエスから洗礼を受けるべき立場にあると語った。ヨハネもまた罪を悔い改めるべき人間であることを自覚している。
- イエスは洗礼を受ける必要がないのに、洗礼を受けようとする。それは正しいことだからと語る。なぜイエスが洗礼を受けることが正しいことなのか。イエスは、罪を犯す人間と同じ立場に立たれた、と聖書解説者は説明する。
- イエスが洗礼を受けた時、神の霊が鳩のように自分に降るのをイエスは見た。また「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたという。
イザヤ42:1
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
- わたしの心に適う者は、イザヤ書42章を反映している。イエスは、神のしもべとしておいでになった。
詩編 2:7
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
- 詩編によれば、イエスは神の子としておいでになったことを示している。イエスは神の子であり、神の僕である。
- 天からの声をイエスは聞いたにちがいない。イエスはこれをどのように聞いたのか。聖書はイエスの気持ちは書かない。要は、イエスは神の愛する子であること、神の御心に適う者との神の宣言である。
- そして聖霊が注がれたことは、イエスがメシアであることを指し示している。メシアとは油注がれた者の意味。イエスは聖霊の油注ぎを受け、メシアであることを神が宣言なさったと言える。
- イエスは自分についてどのような認識を持っていたのかは聖書に書かれていない。ヨハネ福音書では明確に自分は御子であるとの認識をもっている。
- ルカ福音書2章には、少年イエスが登場する。彼はこう言う。
ルカ 2:49
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
- この少年イエスの言葉は、神の子であるとの意識がある。
- 私たちにとって大切なことは、御子がイエスとして人となり、私たちを罪から救うためにこの世においでになったことを信じることである。
- 聖霊が降ったことと天からの神の声は、イエスにとってメシアとしての活動をするに当たって励ましとなったのではないかと思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>イエスに聖霊を下し、メシアとして認め、イエスのこれからの働きを励ました。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>イエスはメシア、救い主である。神からの油注ぎを受けた方である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、あなたは洗礼を受けた主イエスに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から声をかけられました。主イエスは、ご自分がいかなる者であるかを確認して、活動を始めたことと思います。
- 私もイエス・キリストを信じ洗礼を受けました。神の子とされ、あなたを天の父と呼ぶことが許されました。あなたはわたしを愛し、わたしを義と認めてくださり、神の子として生きることを許し、また期待されていることを思います。
- 年齢を重ねても、なお神の子として歩みます。老いた信仰者として、なおあなたの子として歩みます。今、イエス・キリストがわたしの主であることを学び、思いめぐらしています。そして説教します。イエス・キリストが私の主であることを深く受けとめることができるように導いてください。
- 今日も学びの時を持ちますので、導いてください。
☆与えられた導き
- 学びの時を持つ。