2023年12月5日
(内容)
- 主の祈りの最初の言葉は、「天におられるわたしたちの父よ」である。神は、信仰をもとにする者たちのわれらの父である。
(黙想)
- 「天におられる」とは、神という存在は、私たちの五感では捉えられないことを意味する。だれもが認める、神が存在する証拠というものはない。神が存在するしるしはある。たとえば祈ったら病気が治ったとする。これを神がいやされたと信じるか、それは偶然と考えるか、人それぞれである。信じる人には、病気が治ったことは神の存在のしるしである。
- 神を信じるとは、人間の選択行為である。神がいるという絶対的な証拠はない。しるしを見て、信じるか信じないか、人それぞれである。言い換えると、信仰には疑いが伴う。自分が信じていることは信じて間違いがないのか、不安や疑いが伴うことがある。自分の身に起きることによっては、神は本当におられるのか、神は自分を顧みてくださっているのか、など疑いが生じても不思議ではない。それにも関わらず、信仰者は信じる方を選択して生きる。
- しかしその選択は、神の導きの結果でもある。神の導きなしには、神を信じることはできない。
- キリスト者は根拠なしに神を信じるのではない。聖書の存在、聖書に書かれていること、それらは、神がおられることのしるしであり、私たちは信じるように招かれている。
- 「われらの父よ」。神を信じる私は、たった一人で神を信じるのではなく、「われら」の一員として神を信じる。神を信じる者たちは、教会に集い、共に神に礼拝を献げる。教会は単に信じる者の集団ではない。信じる者たちが自分たちの便宜のために集団、組織を作ったのではない。聖書が伝える神は、信じる者たちの群れをつくる神であり、信仰者の共同体の中で、信仰者は生きる。信仰者は「われらの神よ」と祈る。
- 「父よ」。私たちには親がいる。父と母がいる。神のことを父と呼ぶ。神がいかなる存在かを示す。神は父的な存在である。神がいかなる存在かを知らせるために、神は親を私たちに与え、父を与えている。父は神をうつしだす存在でもある。
- 自分が子どもの時は、父がいた。大人になり結婚して子を授かり、自分は父となった。父とは何か。父は子の成長に責任を持って関わる存在である。子を愛し、育てる。子を危険から守る。教え導く。人間の場合、父だけでなく、母も心を注いで、子を育てる。神のことを霊的な父と呼ぶこともある。
- 「われらの父」と呼ぶことは、自分が信仰共同体の中に生きていることを意味する。教会に属して生きる。その教会は、自分が今礼拝に出席している教会だけではなく、代々の教会でもある。歴史の中で生きたキリスト者も、「われら」である。悩み惑い、不安や疑いを持って信仰に生きるのは、自分だけではない。代々のキリスト者も同じである。そしてそれでもなお代々のキリスト者は信仰を貫いて生きた。
- 今そばにいるキリスト者、歴史の中で生きたキリスト者、皆、神の存在を指し示している証人だ。自分も証人の一人として、われらの一人として生きていきたい。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
<御父>私たちの父なる神である。
<御父>信仰者の群れを作り、群れの一人一人の父、神となってくださる方である。
☆神が私たちに求める生き方
<勧め>他の信仰者の存在は神の存在の証である。私たちは、このような証人に囲まれて生きている。またその証人の一人である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、主イエスは、「我らの父よ」とあなたに呼びかけるように教えられました。私たち信仰者は、共にあなたに「我らの父よ」と祈ります。私たちはたった独りで信仰生活を送るのではなく、他の信仰者と共に、信仰に生きます。我らの中には、代々の信仰者も含まれます。
- 信仰に対する疑いを悪魔が持ってきますが、私は「我ら」の一員であることを覚え、信仰に生きることができるよう助け導いてください。
☆与えられた導き
- 「我ら」の一員として生きることができるように祈る